20年前のバリ島は現在と違って、まだ日本人が少なかった。日本人であるとわかったら、「ココロの友」と呟かれた。当時バリで流行っていた五輪真弓の曲名だった。
私はインドネシアのバリ島に滞在し、銀細工製品を注文しては、日本に送って百貨店の催事で売るような仕事をしていた。朝早くに起床して、マンディ(水浴び)。そして、銀の街チュルクへ行き、仕事をする。お日様が真上に上がるころにはお家に戻り、またマンディ。お昼を食べて仕事して、夕方にはビーチに出かける。そしてまたマンディ。こんな毎日が続くのは、あまりにもの日々の南国の暑さ故である。
その暑い生活にかかせないのが、1枚の布。これを現地の人のように、腰に巻いてスカート代わりにすると、ギラリと照りつける太陽から吸収した、体内にこもった熱気から開放され、身体が一気に軽くなる。1日着た後の汗を含んだ布は毎日洗う。
こうして生活のうちに、自然と布が増えてきた。ある日、家の大家から相談があると言われた。どうも知り合いの子供が入院するらしく、お金が必要だそうだ。
「それでその人が売りたいものがあるのよ」。
それが、今でも大切にしている、手書きのプガロガンのバティックの布だった。プロンガンは、北岸系バティックの代表地とされ、その多彩な花柄は、ヨーロッパ系工房が絵葉書、陶器、壁紙などのデザインをアレンジして制作され始めたもので、バティック模様に新しい風を巻き込み、その華やかさ、貴重さから結婚式にも着るような女性の正装に使われたものだ。布を持ってきた彼女が、大事に1枚1枚を丁寧に明るい中庭のテーブルに広げると、華麗な花が瞬間に咲き、そこに春が訪れたようだった。一目惚れした私。 「大切な物なの。でももっと大切なのが、病気の息子だから」
彼女は、鮮やかで細かな模様のひとつひとつを、身に付けたときに感じた柔らかな感触を、永遠に記憶に残しておくように、1枚ずつ優しく指先で撫でながら目線を落としたままぽつりと話した。恋人との最後のお別れのように。うつむき加減の彼女からは、これを着たときはさぞ、幸福の時間を過ごし、それは今でも晴れやかな思い出となっているに違いないと察した。
米を買うために、箪笥の中の大事な自分の着物を質入する、昔の日本の妻を思い出し、国は違っても、女性にとってはいちばん辛い選択に、この布は皮肉にも鮮やかすぎる。
かくして、春色のバテッィクは私とともに海を渡り、衣装ケースの中で、大事に保管されている。たまに布を広げると、やっぱりパアっとあの時のように鮮やかな顔で迎えてくれる。息子が元気であれば、女は後悔しない。それだけは、この布を見るたびに願っている。