泰安天行

父方の祖父は、若い時分、大層なろくでなしであったらしい。
仕事をさせれば、他人の半分の時間で、他人の倍以上はこなすという器用さであったにもかかわらず、ある時突然「俺は歌唄いになる」などと言い出し、ろくすっぽ働かず、一日中唄っていたという話。医者の家系に生まれたお坊ちゃま、生活観念という物が著しく欠けていたのだろう。

その妻である祖母が、大変な苦労をしてきたことは、想像に難くない。しかし、孫の私たちには、「爺様はとても歌が上手い」と笑顔で語っていた。どんなに辛かろうが、昔から愚痴一つこぼすことがなかったと、父や伯父達は言っており、確かに祖母が愚痴や他人の悪口をこぼす姿を、誰も目にしていないのだ。『観音様』と皆が呼ぶ、強く暖かい女性。祖父は、自分が甲斐性なしであったため、祖母に苦労をかけたと、後年悔いていた。
菩薩とこわれぼんぼん。よく考えたら物凄い夫婦だが、波長が合っていたのだろう。いつも肩を並べ、笑顔を絶やさなかった2人。

祖母が他界した時に、誰よりも打ちのめされていたのは、当然祖父である。彼の後姿を見て、病院で息を引き取った祖母の解剖に、祖父が同意するはずなかろう、親族一同そう思っていた、が。
「婆様のどこがどう悪かったのか、何にどのように苦しんでいたのか。婆様が残した最後の言葉を読みとってやってください」
と、真っ直ぐな眼で担当医師に応えていた祖父。ただのぼんぼんにはあるはずもない力強さ、祖母への揺るぎない愛情を、私も子ども心に感じ取った。

その後の祖父はといえば、意気消沈、「俺も婆様のところに行きたい」が口癖になってしまった。ボンクラ時代に於いても三行半を突き付けることなく、陽気な爺さんになるまで寄り添い続けてくれた、最高で最強の伴侶の不在。かける言葉を見つけられる者は、誰もいなかった。

それから9年後のある日、午後3時。私は無性に黒いワンピースに、黒い靴下と、黒い靴を合わせ、身に着けたくなった。まるで葬式みたい…そう思いつつ外出。
夜に帰宅して届いたのは、祖父の訃報。親元を離れて暮らす私は、祖父が米寿の大往生であったということ、
「仕事があるだろうから希望は帰って来なくても良い」
という旨のことを、実家の母から電話で聞かされた。
「あ」
妙にひっかかる点があり、電話の向こうの母に訊ねた。
「息を引き取ったの、何時?」
「ちょうど午後3時」
遠く離れて暮らす私に、祖父が葬儀に参列できないことをみこして、誰よりも早く喪服を着せたかのように思えた。爺様、やるなあ!…涙を止められないまま、私は笑ってしまった。

葬儀にも、四十九日の法要にも、結局私は参加出来ず仕舞い。すると数日後、地元で暮らす仲良しの従妹から電話が入った。
「どうして来なかったのよ!四十九日、すっごく面白かったのに!」

…は?面白い法要なんぞ、聞いたことがない。戸惑う私に、彼女が説明してくれた面白法事の一部始終とは、以下の通り。

まずは、他の法要にて散々飲ませられたと思しき導師が、へべれけの状態で登場。呂律が回っていないわ、鈴と間違えて香炉を打つわ、お経をすっ飛ばすわ、また香炉を打つわ、うたたねするわ、起こしてもまた寝るわ?にわかには信じ難い光景が繰り広げられていたらしい。

列席者一同、唇を噛み締めてやり過ごし、導師が退席した後、当然ながら大爆笑。「これは爺様の仕業だ」、誰もがそう信じて疑わなかったということだ。
確かに、爺様ならやりかねない、前例もある、私もうなずいた。
ようやく愛する婆様の元に行けるのだ、悲しい顔などしてくれるな、そんなところか。

『泰安洋行』という、ミュージシャン・細野晴臣のアルバムがある。「良い旅を!」という意味なのだろう。
だとすれば、祖父の旅立ちは、まさに「泰安天行」だ。

北の空を見上げれば、祖父の笑顔と、寄り添う祖母の笑顔が目に浮かぶ。