ビバラ方言

「ふるさとの訛り懐かし停車場の人込みの中に其を聞きに行く」
そんなふうに詠っていたのは、石川啄木だっけか。
首都圏での生活を始め、もうじき10年になる。地方出身者で溢れている土地のはずだが、その訛りや方言を耳にする機会はほとんどない。啄木よろしく、ター ミナル駅の混雑に注意を払ったとしても、耳にススッとストライクされることはなく、引退直前の江川卓のごとき静かな涙のわけを、その場の誰にも打ち明けぬ まま、サヨナラとホームからランナウェイだろう。

いわゆる「標準語」に馴染んで訛りが消えたのか、意識的に訛りを隠しているのか。
とある地方都市出身の私は、後者に当たる。地元で暮らしていた当時はまったく気づかなかったのだが、私の育った土地の訛りは、他の地方の人たちには威嚇的に聞こえるらしい。男言葉に近く、荒っぽいとでも言うべきか。
誤解されることが面倒なので、気をつけているつもりだが、20年以上親しんだ言葉。簡単に抜け切るわけがなく、未だに時折周囲を怯えさせてしまう。

訛りや方言を隠す理由でよく聞かれるのが、「通じないから」と「馬鹿にされてしまうから」の2つ。通じないのは不便だから、隠したくなる気持ちは分かる。 馬鹿にされてしまうから……うーん。イントネーションの違いだけで、指名手配犯を発見したかのように騒ぎ立てている人を時折見かけるが、そんぐれぇで騒ぐ なや別にいいねっか(それくらいで騒がないでよ、別にいいじゃないの)と私は思ってしまう。

ブームと呼ばれて久しい訛りや方言だが、無条件に歓迎されているわけではまだないようだ。こと、地方では、その空気が高い濃度で充満している。
そして東京から近い土地、もしくは、交通手段の発達により近く感じる土地では、こんな発言を耳にすることがある。
「私たちの地元は、そんなに訛っていないよね」
同じ旨ではあるが、実際の言葉は全然違う。私の出身地で聞いたように表記してみよう。
「うちった、そんげ訛ってねよねー」
訛っていなければ、「うちった」だの「そんげ」だの「ねよねー」だのも言わねよねー、目ぇ覚まそて、訛ってんだて……と、一人一人に諭して回りたい。だい たい、訛っていても不便しない生活環境下、気にする必要もないのに、そんなふうに確認してしまう同郷者を私は、愛おしくて抱き締めたくなる。

地方人の坩堝(るつぼ)の只中で育った東京出身者は、訛りをどう捉えているのだろうか。
生まれて以来30年間、東京以外の土地で暮らしたことがない、という知人がいる。当然ながら、彼の言葉には訛りや方言は微塵も混入されていない。
ある時、私は会話中にうっかり訛ってしまった。まずい、通じていない、と気づき、慌てて取り繕う私に向けられた彼の視線は、羨望の色を帯びていた。
「いいなあ、方言。俺、憧れる。ほら、時々言葉だけで『あれ? もしかして同じ出身地?』なんてさ、すげえ羨ましい。喋るだけで自分のルーツを証明できるんだよ、かっこいいよ」
そんなふうに言われたのは初めてだったが、確かに、使い慣れた訛りや方言は、目に見えないIDカードのような存在。「訛り=かっこいいもの」、思ってもみなかったことだ。

海を間近に臨むとある街を訪れた時のこと。口で息をすると、仄(ほの)かな潮味が広がった。私の出身地も海に面しているため、初めて訪れた場所であるにもかかわらず、親近感を拭い去れなかった。
偶然に出会った老人と他愛ない会話を続けるなか、彼の何気ない一言に、私は大きく反応を示した。正確には、彼の言葉遣いとイントネーションに、だ。
訊いてみたところ、彼の出身地は私と同じ、北国のとある地方都市。しかも、同市内。
しばしの間、訛りと方言の大展示会とばかりに、同県民にしか分かりえない、お郷話が続いた。潮の匂いに包まれた街で繰り広げられた風景は、いわば擬似里帰り。訛りや方言がなければ、同郷であるとは気づかずにいただろう。

訛りはルーツを証明できる、目に見えないIDカードのような存在。私は心の中でその言葉を思い出し、反芻していた。