人を何かへの反応タイプに区分するとして、その一つの方法に小説を読んで「欲情する」「しない」というのはどうだろう。
ワウワウやスタチャンのピーチタイムムービーでは「しない」けれど小説では「いける」とい人種は確かに存在する。もちろん、作品区分も同じだ。「させる」作品とそうでないもの。
では、「する」タイプの人間が「させる」小説を読んだとして、何ゆえ、どこに、どういった要素にそそられるのか。
例えばきつい性描写。汗や血や精液の匂いまでをリアルに再現してみせるセンテンスは確かに「欲情」という肉体反応と直結し、次の行為への連想を呼ぶものではあるのだろう。
だが表現されたそれらひとつひとつのセンテスそのものはさほど意味を持たない。むしろピーチタイムムービーの陳腐さに似た苦笑をひきだしかねない。
「猫背の王子」について言えば、「させる」小説であると明言しよう。
が、「するタイプ」の読者といえども、主人公の王寺ミチルの衝動を共有するわけでは決してない。
主人公のセクシュアリティーや、しばしば行き当たる、あまりにもキツイ描写にギョッとするにはするが、「ああ、そー」で読み過ぎていくのみ。
むしろ、そこまで書いてしまうことの必要性が果たしてあるのか、冷静に疑問を抱く。
たとえば「切ないまでの恋愛小説」「演劇という芸術表現に魂をかけた情熱物語」と受け取る向きもあるだろう。が、読者をひきつけて止まないのは本当はそのいずれの要素でもない。
大仰にいえば、ミチルの衝動の出何処。それは恐らくミチルだけのものではないはずなのだ。
許された、あるいは愛されるべき存在の根拠、命の根っこが芽を出したいといってミチルを動かしているのだ。芽を出すことができる柔らかな土の在り処が見つからないという不安がミチルを猫背にし、女ったらしにしていることに、読者は感作してしまう。
無意識のうちに忘れたくて閉じ込めていた同質の不安が醒まされるからだ。
誰でも自らを愛されるべき存在として認知したい。それでないと生きられない。最も根源的な自己肯定を得るためには悪魔にさえ魂を売り渡すだろう。
だからミチルが欲するもののために身を投げ出したつもりが、神の両の掌にすくい上げられるにちがいないと祈らずにはいられない。
読者がみちるのために、また自身のためにその胸を祈りで満たし、肉体の奥深くに熱を帯びる時、すべての激しい描写は鮮烈に必然となるのだ。
読み終えて、自身の中のミチルを我が腕で抱きしめる。そういう人間が読んで「スル」タイプの人種なのではないか。
作者名:中山 可穂
ジャンル:小説
出版:集英社文庫