誰にでも、これまで読んだ本の中で「忘れ得ないフレーズ」というものがあるだろう。
それはもちろん「トンネルを抜けると、そこは雪国だった」(川端康成『雪国』)、「吾輩は猫である、名前はまだない」(夏目漱石『吾輩は猫である』)のような、いわば勝手に覚えてしまうような一節ではない。そして「創めに神が天と地を造った」(旧約聖書『創世記1章1節』)など、信仰心から来る一節でもない。
自らの意思で読んで、そこで深く刻まれたフレーズ……いや、そのうえで「トンネルを抜けると、そこは雪国だった」を挙げる人もいるかもしれない。それは謝るが、まあそういうことである。
私がそんな一節でパッと思いつくものがふたつある。ひとつは『広辞苑』で「左」を調べたときの「北を向いた際の西の方向」(本当)。そしてもうひとつが東野圭吾の長編小説『変身』にある。他の東野圭吾作品でも印象に残るフレーズはたくさんあるが、真っ先に思いつくのは間違いなく『変身』のアレである。
ごくごく普通の気弱な会社員、成瀬純一。画材店に勤める恋人・葉村恵と穏やかな毎日を送っていた彼がある日、凶悪事件に遭遇する。女の子を守ろうとした純一は頭に銃弾を受けてしまうが、善意の青年を救うべく世界初の脳移植が行なわれ、彼はこれまでの意識を保ったまま、奇跡的に死の淵から静観する――。
ここまでの日常→悲劇、そして輝かしい成果と未来、この描写からの暗転はあっという間にやってくる。当の純一に降りかかり始める「自分は"自分"なのか」という異変。それを目の当たりにする恋人。そして移植手術を行なった医師グループ。主要人物たちの日記・メモ書き形式で進んでいく展開に埋め尽くされている困惑や不審、悲しみに思惑などがない交ぜになって忍び寄る。そして中盤、読者にとって文字通り"目に見える"変化が純一に訪れたときに、それは登場人物たちにとっても読者にとっても、一気に不安は恐怖へと駆け上がる。
「善や正義とは、言ってる側の身勝手な言い分かもしれない」、読者としてそんなことも思いながら、純一への脳移植とはいったいどういうものだったのかが徐々に明らかになっていく終盤。健やかな日常を奪った銃撃という悲劇、そしてあろう事かそれを上回る悲劇となった「成瀬純一」という人格の変貌。当の純一だけではない、そんな絶望の暗闇を一緒に彷徨った恋人・恵。二人での希望の見えないやり取りの後、恵に"ある言葉"を告げる瞬間が純一にやってくる――。
ここからオーラスまで、物語は"救い"に変わる。それは逆に、ごく平凡な恋人同士を襲った恐怖と悲しみの深さにもまた気付かされることになるのだが、オーラスの1行が、そんな圧倒的な悲劇に"最後の光"を照らしてくれる。
私の心に刻まれているフレーズとは、その"最後の光"ではない。それもまた心に残る一節には違いないのだが、最初に救いの扉を開いた純一から恵への"ある言葉"、これが私の「忘れ得ないフレーズ」なのである。
「君を愛したことを、忘れない」
このひとことが、"最後の光"をより輝かせている。
個人的に東野圭吾のランキング1位、『変身』。
「君を愛したことを、忘れない」
このフレーズに止めを刺す。
君を、愛したことを、忘れない――
作者名:東野 圭吾
ジャンル:ミステリー
出版:講談社文庫