【宮下純一さんに7つの質問】
Q1:水泳との出会い
5歳のころです。それまでは顔に水がかかるのがダメで、風呂に入る時は必ず“シャンプーハット”を手放せませんでした。幼稚園で水遊びがあるときでも、水着になるのが嫌でした。その時の集合写真では、幼稚園の衣服で写っています。それで、幼稚園の先生が母に「小学校に入ったら水泳の時間があるから、純一くんがかわいそうな思いをする。今のうちにスイミングに連れていったほうがいいんじゃないですか」とアドバイスしました。最初は嫌で泣いたりしていたんですけど、無理やり連れていかれて。それでも通ううちに、1年くらいで水嫌いは克服しました。そのままスイミングを続けて、10歳ごろには全国大会に出るようになりました。当時は、勝負に勝ちたいと言うよりは、全国にできた友達に会いたいという気持ちでした。
Q2:中学・高校時代は?
中学には水泳部がありませんでした。でも、中体連(日本中学校体育連盟)の試合に出るには水泳部が必要でしたし、僕の他にも鹿児島で速かったメンバーが4人集まっていたので、体育の先生にお願いして設立してもらいました。とはいえ、水泳がそこまで好きというわけでもなくて、思春期だし遊びたいし、水泳をいちばん辞めたかった時期でもあります。スイミングの休みは水曜日だけだったので、友達に日曜日に遊びに行こうよと誘われても無理だったんです。
中学2年生の時に、仲が良かった保健体育の先生に軽い気持ちで「水泳をもう辞めたいと思ってます」と相談したんです。そうしたら「辞めたいなら、辞めていいんじゃないの」と言われたのが意外でした。他の先生には、もったいないからもう少し頑張れ、とか言われていたので。そして、「でも、もうちょっとお前の頑張るところを見てみたいな」と言われて、自分の水泳ってなんなんだろうって考えるようになりました。自分の中で遊びがいちばんなのか、水泳がいちばんなのか、って。自分も九州では敵がいなくなってきていたし、全国レベルで戦うには遊びを我慢して練習しないといけないな、と考えるようになったんです。
「お前の頑張るところを見たい」
このひとことで全国大会常連へ
高校に入って全国大会の常連になりました。とはいえ、鹿児島に住んでいるので、決勝レベルじゃないと行かせてもらえませんでした。このころから、九州では勝てるのに、全国で勝てないので悔しいと感じ始めました。友達とは会えますが、会うだけじゃなくて水泳でいちばんになりたいと思いはじめました。
これが熱血の赤ふんどし
水泳の練習は下校後プールへ通っていましたが、体育祭では水泳部としてリレーに出ました。部活動対抗リレーでは、部活の格好で走るのが基本です。柔道部は道着を着て走るわけですが、僕が入学するまで水泳部はジャージで走っていたらしいんです。僕は目立ちたがり屋(笑)だったので、先輩たちに「水着で走りましょう!!」提案しました。その上、みんなと一緒はイヤで白の水着で走りました。2年目は女の子の水着を着て出場。3年目は、やることがなくなって、ふんどしで行こうと決めました。白じゃ面白くないので、熱血・赤のふんどしを購入し、最初は4人でやろうとしていたんですけど、校長先生に止められてしまいました。それで、結局みんな止めたんですけど、僕は直前にジャージを脱いで、ふんどしで走りました。校庭は大騒ぎになり、部活の顧問の先生から校長先生に謝りに行きなさいといわれました。でも、結果オーライで、みんなが盛り上がってよかったよって言ってくれたんです。
水泳は、日を追うごとに記録は伸びていたんですけど、同年代に速いライバル選手がいたので、なかなか勝てなかったですね。
Q3:オリンピックを意識したのはいつ?
「辞めていいんじゃないの?」と言ってくれた中学校の恩師に出会った後、僕も生徒に気付かせてあげられるような先生になりたいなと思いました。そのころから、教師になるという夢を持つようになったんです。大学に入る時も、水泳のいちばん強い大学から勧誘が来たんですが、その大学では保健体育の先生にはなれないと聞いて断念しました。それで、保健体育の教員免許が取れる中でいちばん強かった筑波大学の体育専門学部を目指しました。僕の学年にはインターハイチャンピオンが4人くらいいたので、望まれて勧誘されるような状況ではありませんでした。そこで、ぜひ行きたいとラブコールを送ったんです。
何もない筑波でオリンピックが目標に
最初は学生寮に入りました。当時の筑波の周りには何もなく、誘惑がないので、水泳をするにはいい環境でしたね。あと筑波大学は、日本選手権だからといって公欠にならないので勉強も大変でした。
水泳は楽しかったですね。鹿児島だとライバルがいなかったのですが、大学だと背泳ぎ以外の選手でも僕より速かったりするんです。当時の日本記録を持っている先輩も一緒に泳いでいたので、毎日が試合みたいでした。最初は、男子の練習メニューについていけなくて、女子選手と同じメニューをやっていました。それでも、大学1年の日本選手権で決勝に残って、2年で表彰台に乗りました。
中村礼子(中央)、中西悠子(左)選手らとともに
オリンピックが夢から目標に変わったのは、そのころです。水泳が、自分の誇れるものというか、誰にも負けないものになっていきました。
卒業論文は、バサロキックの2次元画像分析。泳者の足にテープで印を付けて横から撮影し、ソフトで解析しました。大学には4人背泳の選手がいたので、伸長や体格別に研究しました。僕はバサロキックが苦手でした。泳速は速かったんですが、レース時、他の選手にスタートダッシュとターンしてからのバサロキックで差を縮められてしまうのが課題だったんです。研究の結果、大きい足と長さという持ち味を活かして、しっかりと水を捉えたキックをした方が速いことがわかり、そこからさらにタイムが縮みました。
Q4:ホリプロに入ったのはどうして?
大学4年の時、世界水泳選手権をマネージャーが見ていて、スカウトされました。北京オリンピックを目指すんだったら、うちでサポートさせてもらえないか、という話をいただいたんです。他の企業からも数社打診されていたんですけど、自分を追い込みたいと思い、決めました。最初はホリプロの契約社員です。選手権では50mで日本新記録を出し、7位で入賞しました。ただ、50mはオリンピック競技じゃないので、そこをマネージャーは知ってたのかなって思います(笑)。100mじゃ全然(ダメ)だったので。
Q5:どんなご両親ですか?
うちはオヤジも九州男児で、大事になってから出てくる感じです。それまでは母が全部僕のことを、面倒見ていました。ただ、こうしなさいとか、言われたことがありません。水泳も続けなさいとは言われていません。練習休むと「本当に、それでいいの?」というふうに、僕に考えさせるような言い方をしてくれました。
大学4年までタイムが伸び続けたんですが、社会人になってタイムが伸びなくなりました。いちばん大事な時期が延びなかったので、凄く苦しかったですね。でも、同期は大学4年で引退する人が多く、後輩の前では模範でなければいけないし、相談相手がいませんでした。その時は親に電話しました。周りは安定して独り立ちしている。今はスランプでもあり、北京オリンピックも出られなかったらどうしようと。そうしたら母が、「(水泳が)楽しかった時期のことを忘れてるんじゃないの」と言ったんです。それで肩の荷が降りたと言うか、水泳人生は短いんだし、自分の楽しい水泳ができればいいんじゃないかなと考えるようになったんです。
Q6:オリンピックの時のことを教えてください
最初はアテネオリンピックを目指していました。その時は順調すぎて「あー、アテネオリンピックも行っちゃうんだろうなぁ」みたいな感じでした。ところが、選考会で2位まで出場できるところが、3位で駄目だった。気持ちが足りなかったと思いました。アテネで引退を決めていた選手は、死に物狂いで猛練習していたんです。僕が北京でそうだったように、背水の陣という状況の選手たちがオリンピックに行ったんです。北京オリンピックに向けて一緒に頑張っているメンバーの中にも、若い世代ではロンドンがあるみたいな意識でオリンピック選考会に出てた選手もいましたが、やっぱり代表になってないですね。
アテネの選考落ちから北京の地へ
それで、北京オリンピックに向けて練習を続けました。オリンピックの選考は2008年の4月にある日本選手権の決勝レースのみです。だから、水泳は難しいんですよ。いろんな選考会があって、その中からタイムを選ぶわけではなくて、何月何日何時の1分間に懸けなければいけない。この時は2位になり、派遣標準記録もクリアしました。代表選手になってからは、オリンピック中心の生活なので、ケガをしないように、病気をしないように日々気をつけていました。
日本代表合宿でのひとコマ
選考を通ったときのままだと、本番で12〜13位くらいです。そのままじゃ決勝では戦えない。出るならメダルを目指そうということで、アメリカに2カ月間の高地合宿に行きました。2カ月の合宿は疲れがたまるし、体調も崩しやすく、リスク大と言えます。それでも悔いがないように練習しました。
7月になると、1日に泳ぐ距離も落として、試合に向けた体を作っていきます。そのころから、だんだんみんなが笑わなくなってきました。張り詰めた空気に変わってきたんです。僕も、寝るとオリンピックの夢を見るんですが、怪我して出られないとか悪い内容ばかりでした。
北京の選手村には1週間前に入りました。日本の選手はすべて同じ棟に泊まります。1階が柔道、2階が水泳、3階が自転車という具合です。エレベーターで谷亮子選手に会ったりもしましたが、試合の最中なのでお互い挨拶程度です。メドレーリレーは帰国する2日前だったので、リレーメンバーだけ違う部屋にまとめられて、「あなたたちは寝なさい」みたいな感じでした。レースが終わった人は、選手村を回って他の選手と交流を持ったり、おみやげを買ったりしていましたけど。
今までの国際大会だと、結果を出さなきゃなというプレッシャーが大きかったんですけど、オリンピックだけはすごく楽しかったです。どうやって泳ごうか、どうやって勝負していこうか、というわくわく感が大きかった気がしますね。
肩の荷が下りた北島康介選手の存在
当日、体調は良かったのですが、僕は正直なところ準決勝で終わりだろうなと考えていました。それで、悔いのないレースをしよう、楽しもうって思いました。それがよかったのか、アジア・日本新記録を出すことができました。その時、ライバルが敗退して、僕のメドレーリレー出場が決まったんです。
「(北島)康介さんが後ろにいれば
大丈夫だと思いましたね」
100m背泳ぎの5日後にメドレーリレーがあったんですが、その間の4日は嫌でした。早く終わらせたかったですね。レースが終わった他のメンバーはいろいろ遊んだりしているんです。一方、僕たちの緊張はマックスです。ロンドンにつなげる意味でも、メダルを取って帰ろうという話はしていました。しかも、4人で泳ぐということに、北島康介選手以外はみんなプレッシャーに感じていました。ひとり失敗したら、他の3人の人生を変えてしまうわけじゃないですか。そうしたら康介さんは「4人で泳ぐんじゃん。気楽じゃん」と言うんです。その言葉をもらって、みんな自然とリラックスできました。
メドレーリレーの直前、僕ががちがちになっていたときに、康介さんが「純ちゃん、俺が絶対1番で帰ってくるから、お前も自分のレースをしろ」と声をかけてくれました。世界チャンピオンで、世界記録保持者にそんなことを言われたら、任せられるじゃないですか。この人が後ろにいれば大丈夫だっていう安心感はありましたね。
ノルマは53秒台でした。泳ぎ終わって、とりあえずタッチしてタイム見て、「はーーっ、終わったー」と肩の荷が降りました。あとは仲間を応援しました。メダルを取るまではどきどきでした。VTRで見ると差が開いているように見えましたけど、現場では掲示板を確認するまでは本当にわからない、激戦のレースだったので。メダルを取ったのが確認できたらみんな安堵してましたね。
両親に電話すると「シャンプーハットをしていたころが印象的なあんたが、メダル取るなんてね」って言ってました。
予選で敗退、自己ベストを更新できないという満足できない結果だったら、現役を続行したかもしれません。でも、どこを見返しても、悔いなく練習できたし、結果も出せました。それで、その年の誕生日(10月17日)に引退し、第2の人生を歩みはじめました。メダルを取ったら和田アキ子さんに食事に連れていっていただく約束をしていたので、焼肉に連れていっていただいたのが嬉しかったです。
オリンピックから帰国後、鹿児島に帰省し、改めて自分は多くの方々に支えられてきたのだと感じました。ひとりでは決して叶えられる夢ではなかったし、結果がすべてでプレッシャーに押し潰されそうになった、苦しい社会人としての時代も乗り越えることはできなかったと思います。
Q7:今後の予定・展望は?
お世話になった水泳に恩返しがしたいと思っています。僕はスポーツに育てられたと言うか、人間関係も水泳を通して教わったり、いろんな人生の勉強をしました。スポーツって素晴らしいと思っています。そこで、いろんな子どもたちにスポーツを始めてもらうきっかけになるようなことができたらなぁと考えています。特に、水泳は自分がやってきたことなので、少しでも多くの人にチャレンジしてほしいと。僕が、オリンピックっていいなと思ったのが、鈴木大地さん(ソウルオリンピック100m背泳ぎ金メダリスト)のVTRを観た時です。生で見られたら、もっとイメージがわいていたでしょう。そこで、今はより多くの子供達に触れて、水泳の普及発展のために力になりたいと思っています。
今後はスポーツキャスター界の金メダリストを目指す!
取材を終えて
宮下さんは26歳と若く、イケメンでやんちゃな一面もある。それでも、オーラと言うか存在感のようなものがしっかりと感じられる。やはり、世界の桧舞台に立った人間は違うな、と思った。最近はテレビで見かけることも多い。これからも、1ファンとして、水泳、ひいてはスポーツ振興のため、芸能界での躍進を期待したい。
【プロフィール】
1983年10月17日 鹿児島県生まれ 26歳
筑波大学卒業
【主な競技歴】
2008年4月16日 日本選手権水泳競技大会男子100メートル背泳ぎ決勝で2位
2008年6月8日 ジャパンオープン競泳大会男子50メートル背泳ぎで1位、日本新記録
2008年8月12日 北京オリンピック競泳男子100m背泳ぎ準決勝でアジア・日本新記録
2008年8月12日 北京オリンピック競泳男子100m背泳ぎ決勝で8位
2008年8月17日 北京オリンピック競泳男子400mメドレーリレーで、北島康介、藤井拓郎、佐藤久佳選手とともに銅メダルを獲得
現在ホリプロ所属、スポーツキャスターとして活動中
宮下純一オフィシャルブログ「JUNICHI MIYASHITA」
http://ameblo.jp/2008beijing/