【坂口直樹さんに7つの質問】
Q1:『〜笑いと涙の“路上詩書き唄い人”誕生秘話〜音楽と詩を始めたきっかけは?』
それはもう、『目立ちたい』とか『モテたい』とか……なんか当たり前の入り口です(笑)。高校の友達と「バンドを組もう」となって、なんかうまいことボーカルをすることになって。まあ、歌はモチロンうまかったですけど(笑)、声がデカかったってこともありますわ、ハハハ。
96年に高校を卒業してから料理の修業をすることになりましてね。そこで“お品書き”を書いたりして、“書”のほうが出てくるんですが……まあ、その前に音楽ですね。高校のとき以来で音楽活動をしようと考えたら、料理の仕事だと時間がまったく読めない。だから仲間とバンドでやるってわけにいかなくて、ギターを抱えて広島の繁華街に出たんですよ。そこで自分の作詞・作曲で歌い始めました。
それが書に繋がってきます。音楽のほうの話ですが、僕は人の曲をお願いされて歌うってのはしたくなかったんです。自分で作った曲がもし1曲だけなら、それをずっと歌う。ただそうすると……歌だっていまよりヘタなわけですし、人なんか集まってきませんよね。そこで「どうしたら集まってくれるかね?」と考えて、音楽で集まってくれないなら視覚に訴えてしまうか……と。そこで、自分の詩を書いて「いまはこういうことを訴えてますよ」って。まあ言ってみれば、大きな歌詞カードですよ(笑)。そうしたらまあ、うまいこと人が集まってくれましてね。歌ってる自分の周りには歌詞を書いた紙が20枚くらい並ぶようになって、歌も書もどちらも、「書いて歌う人」として認知されてきたんですよ。
Q2:『〜笑いと涙の“路上詩書き唄い人”誕生秘話〜広島から脱出の行方は?』
詳しい時期はあまり覚えていないんですけど……たぶん97年ごろですね。広島で詩を書いて、歌を歌っているうちに、「もう広島では負ける気がせんな」となりまして(笑)。地方紙さんとかテレビに出させてもいただいたし、まあテングになったんですね。
これ完全に若気の至りですね(笑)。「旅に出たい」とか「何かを吸収したい」ってのじゃなくて、「鬼退治」のつもりで広島を出たんですから。「オレより強いヤツはどこにいるんじゃいっ」ってなもんでしたが、隣の県にすぐいましたけどね(笑)。わははははは。最初に海を越えて愛媛に入ったらそこで倒されてしまいましたわ。
道で歌っていた年配の人なんですけどね。すごい純粋に「こんなにいい歌、僕には……すでにオレから僕(笑)……僕には歌えないな」と思って。僕は書道と音楽と足して2でやっているけど、僕に筆がなくてこの人と歌だけで勝負したら勝てないな、と。そこからはいきなり真摯な旅になりました(笑)。……しかしま、愛媛じゃなくて最初に山口か岡山に行ってたら運命変わっていたかもしれん。ありがとう愛媛(笑)。
まあ、そこからは四国をぐるっと1周回って、フェリーで小倉から九州1周。そのあと広島に戻ってから、友達の卒業旅行の車に便乗して東京まで行って……さらに各地の主要都市を巡って広島に帰りました。ここではまだ横浜や東京に居着いたわけではないんですよ。
旅に出たときはですね、財布に8000円だけ入ってましたね。それだけでも歌ったときの“投げ銭”と……あ、僕が色紙に詩を書いたのってこのときが最初なんですよ。書き始めたときはそれこそルーズリーフとか油紙に書いてたんですけどね、旅の途中で女子高生が「色紙に書いてもらいたい」ってことで、その子が10枚くらい買ってきてくれて。それで自分の分を1枚使って、残りを「他の人も色紙のほうが喜ぶから」ってくれたんですよ。
たとえば100円あったとき、色紙は1枚しか買えないけど、ルーズリーフはいっぱい買える。でも、色紙なら大事に持って帰ってくれて記念になりますよね。その女の子に会った瞬間から四の五の言わずに色紙にしました。投げ銭が貯まったら色紙を箱買いして、余ったお金でごはんを食べる。そんな旅でしたね。
Q3:『〜笑いと涙の“路上詩書き唄い人”誕生秘話〜広島へ凱旋の成果は?』
凱旋? 凱旋ちゃいますよ(笑)。なんも変わらなかったですからね。
まあそんな旅でしたが、広島に戻ってきてから……それまでどちらかというと書のほうが目立ってたんですが、音楽で認めてもらうチャンスがあったんですね。
広島の繁華街で歌ってましたら、たまたまアメリカの人が通りかかって聞いてくれたんです。で、そのとき歌っていたのが原爆投下に関する思いっきり“反戦歌”でしてね。最後まで聞いてくれてたんですが、途中から「どうかこの人、日本語わかりませんように」と思っとったら……まあ流暢な日本語で話しかけられまして(笑)。で、実はその人が携帯電話のボーダフォンで当時社長をされていた方だったんですわ。
それからお付き合いさせていただいて、当時のJフォンがボーダフォンに刷新する際に帝国ホテル(東京)で開催された式典……2000人規模でしたが、そこでのおみやげに僕のCDと書の色紙を配ってくれたんですね。さらに社長挨拶の前にシークレットライブまでやらせていただいた。まあ、このおかげでドーンと生活が変わった……ということはまったくなかったんですが(笑)、ボーダフォンさんにはその後もいろいろと使っていただきました。式典の日、広島からギター抱えて小汚い格好で来たら帝国ホテルのロビーで追い返されかけたとか、そんなんも合わせて一生話せるネタ話として、いまもいい思い出ですね。
まあボーダフォンはいまは違う会社になったので、ご縁がなくなったのですが……いまの会社の社長にも「“ソン”はさせませんよ」とか、“ソフト”にアピールしておきましょか、ハハハ。
Q4:『〜笑いと涙の“路上詩書き唄い人”誕生秘話〜旅の出会いのその後は?』
まあ、そんなご縁の話で言えば、旅に出たときにたまたま出会った人たちが、ネットなんかで調べて「ひょっとしたら……」ってまた会いに来てくれたりするんですよ。僕自身はあまりネットに強くないんで、すごいなあと思うんですけどもね(笑)。
この前徳島に行ったとき、女性の方が「10年前に色紙をもらおうとしたら、私の直前で色紙が切れてしまって……そのときから待ってました」ということがあったり。もう10年越しのロマンスですよ。いや、ロマンスにはなってないのよ(笑)。先日も全然知らない番号から携帯に電話があって、出てみたら男性でちょっとガッカリ……してませんよ(笑)。でまあ、その瞬間に「なんかワシャ悪いことしたかのう……」と記憶を辿っていったら、熊本に行ったときに、会社の同僚を引き連れて見に来たりしてくれたり、いろいろとお世話になった方だったんですね。その方からの「いま東京に来てるよ」って電話だったんですよね。そのときは別件で地方にいたからお目にかかれなかったんで、7月に熊本に行くときが楽しみです。
あ、8月には長野に行くんですけど、長野ではすごく嬉しかったことがあるんですよ。2回くらいしか会ってない方なんですが、僕の歌にえらい感銘を受けてくれて、CDを買ってくれたんですね。その人から1年くらい前に「結婚します」と連絡をいただいて、結婚式でぜひ歌をってことで、長野まで行ったんです。それでビックリなんですけど、歌う気マンマンで会場にいたら新郎新婦の入場曲からなにから式中の曲が全部僕のなんですわ。彼らが持ってるCDはちゃんとレコーディングした時代のものじゃなかったので、音の質なんか全然のものなのに使ってくれて。しかも、じゃあ歌いましょうかとなったときに……僕の歌、長野でなんか全然売れてないですよ。なのに、新郎新婦はもちろん親族の人まで僕の歌を暗記して、マイクを回して歌ってくれた。もう、すっごい嬉しかった。そんなできごとも旅ではありますね。
Q5:『〜笑いと涙の“路上詩書き唄い人”誕生秘話〜“いざ東京へ”の思いは?』
先のボーダフォンさんとのおつきあいというのも広島時代のことではありますが、実のところ広島では“知る人ぞ知る”的な存在になっちゃったんですね。「こんなイベントやるから○人くらいのストリートミュージシャンいない?」などの注文に応える……なんというか、“広島のストリートミュージシャン界のドン”(笑)みたいな感じで、後輩を全面に出して自分は後ろに回ったりしていたんですよ。
そうしたら、当たり前なんですけどチャンスをもらった後輩のほうが売れてきちゃったりして(笑)。それで「ワシャなにしとんじゃい」と。自分が前に出ないでね、「ぐっちさんぐっちさん」って後輩から言われているだけというのは、こりゃ逃げているんじゃないかと。それでいいのか、満足できるのかと考えたときに、都会で、東京で揉まれてみるかという意欲が出てきたわけですね。
東京に出て最初は友達の家に居候したんですけど、彼もミュージシャンをやっていたおかげで、行った早々に“音楽性の違い”で別れました(笑)。バンドじゃないのにそれで別れを経験したのって僕らぐらいでしょう。ハハハ。それでしばらくは……半年くらいですか、野宿ですね。公園で寝てみたり、親切な人に泊めていただいたり、ちょっと投げ銭が多いときはカプセルホテルに行ったり……なんてしてました。
そこで日常に“屋根”、屋根のある生活が登場するのは……場所は横浜なんですけどね、ある人がよく行っていた屋台のおでん屋さんがありました。お客さんも含めて、ここの人たちが応援してくれるようになったんですよ。うん、横浜で最初のファンのみなさんですね。で、そのある人がリフォーム会社の人で、そこの資材置き場の鍵を預かることになり、「朝に社員が来るまでの間はここにいていいよ」ってことになったんですよ。それが5カ月くらい続いたんですが、世知辛いご時世でその会社がなくなっちゃったんですね。ある朝のこと、寝袋を小突かれて目が覚めたら、5人くらいの怖そうな人に囲まれてましたわ(笑)。
ま、それでまた屋根がなくなっちゃったんですけど、そしたらすぐ近所の会社の方が「じゃあウチの事務所に来なよ」と。ありがたい話です。で、そちらが洋服関係の会社で、しかも社長さんと服のサイズが一緒だったんで、ちょっと流行の時期が過ぎただけのオシャレな服をたくさんくれたんです。いやいや、ありがたい話です(笑)。
で、そうこうしているうちに今度は、知り合いの中国雑伎団の人が、借りているアパートを出ることになった。で……敷金とか礼金とか「もったいないから又借しで住んじゃいなよ」となりまして。あ、これっていけないことなんですよ。いけないことなので、すぐに大家さんに見つかりました(笑)。見つかって喫茶店に呼び出されましてね、「これは敷金・礼金納めるか、って話なのか。いやいや、これは違反行為だから有無を言わさず退去だよなあ……」とか思いながら喫茶店に行ったわけですよ。もう万事休すですわな。
ところが。「で、アンタいったい何者?」ということで正直に話したら……以前NHKで僕のことを特集してくれたことがあったんですが、大家さん、その再放送を観てくださっていて。「あの人か……あれ感動したんだよ」ということで、不動産屋に「彼はそのまま入れるよ」って連絡してくれて……もう起死回生、逆転満塁ホームランです。そしていまも、そのアパートに住んでるんですよ(ニッコリ)。ありがとう大家さん、ありがとうNHK(笑)。
Q6:『〜笑いと涙の“路上詩書き唄い人”誕生秘話〜音楽と書への思いは?』
そうですねえ……………………たとえばなんですが、僕、書き始めたとき字ってうまかったと思いますか? これがね、まったくダメだったんですよ(笑)。しかも当時はちゃんと墨を擦って筆で書いていたわけじゃなく、単に筆ペンで書いていただけですから、筆圧とかもなければ味とかもまったく出せてない。とてもとても、人前に出せるとか、売れるシロモノじゃないですわ。ハハハ。それよりも世に出したい気持ちが先だったので、思いついたままやってみたってことです。……ただ、その出発から僕が培ったというか、気づいたことがあるんですよ。いまでこそね、人前にも出せる味のある字を作り出せるようになりましたが、書き始めた当時から僕の書を求めてくれる人がたくさんいらした。それはやっぱり、字がうまいとかヘタではなく、「言葉が持つ力」を訴えることができたということなんだと思います。もちろん、これは音楽にも言えることで、書でも音楽でも、始めた当時からいまに至るまで、だんだんと積み重なって気が付いたことですよね。
ちなみに、最初にルーズリーフに書いた詩は、誰にもあげずに取ってありますね。やっぱりうまくは
ないんだけど、たまに何かあると見直してますよ。
Q7:『〜笑いと涙の“路上詩書き唄い人”誕生秘話〜そして未来は?』
まあ……物事を経験するということは、たとえば毎日料理を作っていても、フライパンでヤケドすることとかもありますよね。そういういろいろな経験をすることによって、書道であるとか音楽であるとかも、厚みが増していくわけです。先ほどお話しした、字のうまさの話も同じですね。うん、これからもしっかり続けていく。そしてその先にあるもの……が、いま僕が目標にしてることになりますね。
僕は広島生まれの被爆三世なので、やっぱり8月6日……これ、いつも言うんですが、決して重たい話ではないんです。そういう土地に育ったものとして、広島の人が平和を求めて反戦歌であるフォークを歌う……いや、それもロックでもいいんですが、そういう日でありたいと思うんです。8月6日の式典も、だんだんと生存者の方は少なくなってしまっています。その中で形だけ式典を続けるよりも、僕らの世代がなにかをしていかないと、と思っていますね。
それがすんだ後に……僕の生まれた広島の庄原はものすごく過疎化が進んでいるので、そこの人口を増やしたいんですよ。いま休田にしちゃったところに屋根付けたら……なんか屋根のあるなしが今日のテーマみたいですが(笑)、そこに何人も住めて、そこでみんなでたんぼも畑も耕すと。それだけで故郷が活性化するわけですよ。まあ、そうなったときにね、集まってくれた人を養っていけるだけの能力と、“お父さん”としての人間力を蓄えていかなけりゃなりませんよね。……いや、これきっとできるんですよ、僕は(笑)。だからこそね、今後も書いて、音楽やって、いろいろな経験を積み重ねていかなきゃならない。
そうしてたらね、僕ならできないわけないです(キッパリ)。僕はそれ、断言しておきますからね(ニッコリ)。
取材余話
坂口さんの手による“書”の売りに、名前の漢字をすべて使った詩を一瞬でサラサラ〜と書き上げる“メモリアルポエム”がある。
試しに「坂口直樹」だと――
「夢。」への坂道をかけ上がれ。誰よりも早く口火を切れ。まっ直ぐに己を信じて、あの大樹の様に空へと向かえ。
と、こう書き上がった。ちなみに何度も書いている自分の名前でも、「毎回なんか違う」そうである。
「たとえば同じ名前でも、姿を見たり話したりで変わりますしね。同姓同名の人が続いても別の物です。だって、書いたらもう忘れている……はっきり覚えてないんですよ」
書かれたこのおもしろさ、すごさは実際に観ていないとわからない。そう思って今回、このインタビューでは、それら書や音楽が『坂口直樹』に降りてきた道のりだけに注目した。しかも書けなかったエピソードも実はいっぱいある。
坂口直樹、おもしろいよ。
ぜひ一度、ご覧あれ。そしてまたこのasobist周辺に出てきます。それ、断言しておきますからね。
【プロフィール】
77年広島県生まれ。『路上詩書き唄い人』
95年から広島市の繁華街にてストリートミュージシャンとして活動を開始。音楽活動とほぼ同時に始めた“書”も人気となり、県内注目のアーティストとなる。その後もヒッチハイクなどでの放浪生活などエネルギッシュに行動し、全国各地での個展や「名前の漢字をすべて使う」メモリアルポエムの書き下ろしなど書家・詩人として、そして
『空の青さと太陽を』、『唯我独唱』(いずれもMgeneより発売)のCDをリリースするミュージシャンとして、ただいま在住の横浜から全国へ向けて爆走中。
どこに現れるか「わかるかもしれない」公式ブログ『坂口直樹ことぐっち君(^^)!のブログ』にもご注目を。