露店にぶらさがるたくさんのベファーナたちカトリックの国・イタリアは、国民の祝日は宗教がらみのことが多い。年末の大イベント、ナターレ(クリスマス)はその筆頭だ。
ナターレといっても、ジェスー(イエス・キリスト)の生誕の日とされる12月25日だけを祝うのではない。12月8日の受胎告知、そして東方の三賢者がジェスーのもとへ贈り物を持参したとされる1月6日までがナターレのシーズンとされる。
イタリアもこの時期にはプレゼントを買う人々で街は騒々しく、そしてウキウキするのだが、本来サンタクロース(イタリアではバッボ・ナターレという)が子供たちにプレゼントを配る、というのは宗教的にはあまり意味はない。対してナターレシーズン最終日の1月6日に“ベファーナ(Befana)”と呼ばれる老婆が配る贈り物を心待ちにする、という姿のほうがイタリアでは王道なのだ。
お菓子のなかには炭の形をしたものもこの1月6日という日は“エピファニア(epifania)”といい、日本語では『御公現』と訳される。これはジェスーが人の姿としてこの世に現れ、ディオ(Dio=神)が人々の前に現われた日とされる、キリスト教の大切な記念日のひとつ。語源は、ギリシャ語で“現れる、奇跡、神の出現”のような意がある。
キリスト教でも教派により、認識が少々違うようではあるが、イタリアでは前述通り、ジェスーが公に認められたとされる東方の三賢者がジェスーを訪問した日にあたる。
このエピファニアの夜がベファーナの活躍の日。ベファーナは、エピファニアの訪れる夜(1月5、6日)に、良い子にしている子供たちに贈り物を運ぶのだ。
たき火の準備。消防隊もスタンバイ
点火した途端に瞬く間に燃え上がる炎ベツレヘムにて誕生したジェスーを訪れようとした賢者たちが道に迷った際に、道案内を頼んだ老女。当初、彼女はこの三人の賢者にちゃんとした道を教えずに送り出したのだが、直後それを無念に思い、自分も奇跡の誕生を遂げたひとりの赤ん坊のもとへ贈り物を届けることにした。籠いっぱいのお菓子を用意したのだが、ときすでに遅し。彼ら3人の姿は当然見えないばかりか、どこへ訪ねて行ったらよいのかわからずじまい――。
そこで仕方なく、ベファーナは子供のいる家庭を一軒一軒訪ねて歩き、お菓子を配って歩いた、という。その子供たちがジェスーであることを願って……。
黒く長いスカートに、黒いマント、黒いとんがり帽子、黒いとんがり靴、という黒づくしの姿がトラディショナル。シワだらけの顔にとんがったワシ鼻、一見恐ろしげで魔女のようだが、実は目も口元も微笑んでいる。そしてほうきに乗り、贈りものをいっぱい詰めた袋を下げているのだ。
イタリア中の子供たちは、エピファニアの夜には、枕もとに靴下を用意する。ベファーナは夜中かかって子供たちの靴下に贈り物を配って飛びまわる。その贈り物とはキャンディーやチョコレートなど、子供たちの大好きな甘いお菓子たち。
しかし、すべての子供がお菓子をもらえるわけではない。この一年を良い子にしていた子供だけがお菓子をもらえ、悪い子だった子供には、ベファーナはキャンディーの代わりに炭を詰めていく、というのだ。だから1月6日の朝には、子供たちはドキドキしながら膨らんだ靴下の中身を確認する、ということになる。
「それではまた来年、会いましょう」エピファニア当日の1月6日、私の住むパドヴァでは恒例の大きなたき火がある。木と藁を組んでつくられるそれは高さ約12m。このたき火は、過ぎた一年の厄を落とす意味と、煙の向かう方向で新たに迎える一年を占う意味を持ち合わせている。
夕方5時、頂上にはベファーナが掲げられている塔は点火され、高く舞い上がる炎のなか、ベファーナも跡形もなく消えた。
こうして今年のベファーナの仕事も終了。しかしながらベファーナはいつまでこの仕事を続けなければならないのだろう。生まれたばかりのジェスーに巡り会えるまで、永遠に続けなければならないのかもしれない……。