いや、本当は「怒ろう」と思っていたのだ。
政治家はあいかわらず無意味で不毛なことばかり言っていて、今に始まったことじゃないとはいえ、それだけならまだしも僕たちの感情を逆撫ですることばかりしようとする。
それを喧伝するほうもするほうで、あれほど矮小なことを繰り返し報道するのは、もしかしたら世間(というものがあれば、だが)の目をそちらに集中させておいて、なにか別の陰謀を進行させようとしているからなのではないか、と勘ぐりたくなるほどだ。
さらに、選挙が近くなったせいかやたらと「世論調査」を名乗る「自動音声の電話」がかかって来てこれも腹立たしいし、駅頭で車の上から「しごくまっとうそうに見えて実は自分のことしか考えていないようなこと」を大音声で語る声も騒がしい。
車で出かければガソリンは高いし、税金も高いし、仕事は少ないし、原稿料は安いし(だんだん問題がセコくなってゆくが)、でなんだかこのところ噴火寸前なのであった。
が。
それらをすべて吹っ飛ばすような経験をしたので、今回はそれについて書き記すものである。
ああ面白かった。
今回は「キャベツのアンチョビソースがけ」。
暑い季節、白ワインをグイッのアテにピッタリです
ことの発端はSNS上でのチャットであった。まったく関係のないことを話して(書いて)いる途中、とつぜん
「ところでパンジャさん、ハムの原木いります?」
とたずねられたのである。「ハムの原木」。「原木」。「ゲンボク」……。
「ハム」はわかった。塩漬けの上、熟成された豚の大腿部である。しかるにゲンボクとは何か。
椎茸の原木なら知っている。「豚を菌で栽培」? いやまさか。
聞けば「骨付きハム」の総称であるという。英語では「Whole Leg」(足1本)。
それの芯の部分。もうだいぶ切ったもので、もう商売には使えないからいらないなら処分することになるけど、まだけっこう肉が付いているので食べられるからどう? というのだ。諸手をあげてありがたく頂戴することにした。
いや、写真をチラ、と見せてもらっていたのでそれなりのことは想像していたのだ。
でもなぜか
「え〜っと、受け取ったら仕事場の冷蔵庫に入れておいて、帰るとき鞄に入れて持って帰ればいいや」
なんて漠然と思っていた。電車を乗り継いで先方へ着き、スペインはバルセロナ南部産という現物を見せられて愕然とする。
これです。
なかなかいいバッグだけど油が滲みていて使えないかもしれないなぁ
デカイですよ。そりゃそうだ。考えたら豚の太股1本だもの。体格(ていうの?)を考えたらわかりそうなもんだ。常温で保存するそうです。冷蔵庫へは入れずともよろしいらしい。
そういえば、と思い出した。その昔スペインを旅行したとき、マドリッドでコレの専門店に入った時のことを。こいつのまだ削られてないヤツがずらりと並んだ店内。その名を「Museo de Jamon」(ハモン・ミュージアム)と言う。たしかに垂涎の光景であった。僕はスペインのハモンが大好物なのだ。ハレルヤ。
なかなかすてきなバッグに入っているそれは、すでに主要部分が切り取られているとはいえ手にズシリ、とくる重量感がある。それほどボリュームがあるとは思っていなかったブツを手に、重ねて礼を伝えて駅に向かう。歩きながらふと手元を見ると、バッグの口からのぞくこれ。
けっこうリアルに脚でしょう?
豚のつま先だ。歩きながら考える。
これに履かせる靴はやっぱり『トウ・シューズ』っていうんだろうか?
豚もバレェを踊るかしら。踊ったらカワイイだろうなぁ。
そういえば昔、植草甚一氏の本を買うと巻末の著者略歴の最後に
かならず「訳書 チェスター・ハイムズ/ピンク・トウ」と書いてあって
ずいぶん探したけどけっきょく見つからなかったなぁ。
あれは出版されていなかったんじゃないだろうか。
さしずめこれは「ブラウン・トウ」かなぁ。
……云々
駅について電車に乗る。天気のいい土曜の昼前で親子連れやカップル、あるいはどこかへ散策に出かけるんだろうか、初老の夫婦などが穏やかな笑顔を見せている車内。
ふと手元を見る。と、そこには「豚のつま先」。
「オレハ 今 豚ノ脚ヲ 1本持ッテ 電車ニ 乗ッテイル!」
と言う事実。それを誰か気づくんじゃないだろうか。
子供がそれを目にして驚愕の瞳をこちらに向けるのではないだろうか。
つま先と僕の顔を見比べて父親の手を引きはしないか。
買い物に向かうと思しき二人連れの女子中学生がそれを目にして嬌声をあげはしないか。
中年の男がふと目を落とした先にある「ソレ」を見つけてニヤリと笑いかけはしないか。
……何もなかった。目ざとく「豚のつま先」に目を向けた人は誰もいなかった。
しかしなんだろうこの昂揚感は。晴れがましいような、誇らしいような、面映ゆいような、なんとも言えぬ心持ちは。
つまりこれはアレだ。
ようするに通常なら出来(しゅったい)しないであろう土曜の明るい陽光が差す車内に「動物の死骸」という「非日常」を自分が持ち込んでいることに起因しているのではないか?
そう気づいたのは予想以上のサイズだったので仕事場へは持っていかず、いったん自宅へ戻るために電車を降りたときのことだった。
考えてみると、彼の地スペインではこの「原木ハム」は日常的に目にする物体であるから、これほど昂揚したり心がざわついたりすることはないはずだ。それは見慣れたものであり当たり前にそこにあるものであり、あるいは「取るに足らない」ものでさえあるかもしれない。
そこには豚がいて、それを捌く人達がいて、ハムを作る人々がいる。だから骨もつま先も見えることで「生きている豚」と「ハムにされた肉」を直結して認識することができるのではないか。
一方、日本にあっては、「ハム」と言えばスライスされて発泡スチロールのトレイに乗せられたもの、あるいは切り取られ、ブレスされ、ビニールでパックされたものであって、そこに「元・獣肉」というファクターは見ることが難しい。
ひょっとしたらそれは意図的に「排除」された要素でなのではないか。
「衛生」と名を借りてはいるものの、あたかもそれを見てとられることは生産者側の「落ち度」とされるよう、操作されているのではないか。
これは思い過ごしかもしれないけれど、今の日本にあって「老」・「病」・「死」……と言った事柄が必要以上に忌避されるのはそれらを「非日常」の範疇に入れて、ただ目を背けさせ、「そこにあってもないかのように振る舞うよう強いられている」からなのではないか。
数年前から「命の授業」などと銘打って「牛・豚・鶏」を学校で飼育してそれを最後に給食に出す、などという活動が行なわれていると聞く。
「いただきます」は「あなたの生命をいただきます」と言うことだと伝えたいとも聞く。
それはそれで必要なことだと思う。
でも大人たちが率先してその忌避し、隠蔽し、隔離し、封印してきた「死」の要素を含む事柄をもうすこし日常の中に解き放ってもいいのではないかとも思うのだ。
この先、高齢者の割合はどんどん高くなると予想されている。近い将来、否応なくそれは耳に入り、そして自覚する機会も増えていくことだろう。だから率先しなくても自然とそうなるよ、と言われるかもしれないが。それでも、と。
「生」と「死」の関係をもっと親密に、それを日常に解き放つ……そのためにも高額なことで有名な「豚ハムの原木」、もっと気軽に買えるようにしてくれると嬉しいなぁ。なんて。……そこかイ。
通販もされています。
(しかしこのサイトに出てくる写真、すごいですね。こんな家族、いねーよw)
セットで2万5000円。安いんだか高いんだかよくわからん。これ、ハムだけだとセットより高いんだよね。だからリピーターは2度目もセットを選ぶんだろうけど、何度も買ったら台とナイフが溜まっちゃうんじゃないの? とコレは買いもしないのによけいな心配。
てなわけで今回の「かんたんレシピ」は肉とはまったく関係なく「キャベツのアンチョビソースがけ」。
春キャベツ、出盛りですよね。白ワインでサクサク食べて梅雨の鬱陶しさを吹き飛ばす初夏の香り。サッと湯がく鍋に入れる塩がポイント……と付け加えて今回もこの辺で。
次回更新は6月18日の予定です。
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