落語の噺の種類のひとつに「地噺」というのがあります。これは普通に物語を進めていく落語とはちょっと違って物語は語るものの、もっぱら状況説明にとどめ、語りは噺家自身のことや話しているその場の状況を主に進行していくタイプの高座……らしいんですが、実は僕にはよくわからんのです。どれがそうで、どれがそうじゃないか、漠然とした印象は持っているんだけどつかみようがない。
というのも昨今の若手噺家さんの中には枕(本編にはいる前の導入部)だけではなく、噺の途中にもそういう自分に起きた出来事などを「くすぐり」という範疇を越えて「入れ事」のように挿入する方がいて、なんだか曖昧になっている印象があるんですね。
柳家喬太郎師匠によれば「登場人物の会話よりも、演者自身の地の語りで進めてゆくタイプの噺」(Panja Memo参照)だそうで、こう言った方がわかりやすいですかね。
最近聞き始めた落語ファンの方々にはあまりなじみがないかもしれませんが、個人的には「地噺」というと、古くは初代林家三平師匠や十代目桂文治師匠の「源平盛衰記」の高座がすぐに頭に浮かびます。「紀州」なんかもそうかな。いや、よくわかりませんけども。
さて、先月の末に伺った入船亭扇辰師匠の「お血脈」もそんな噺のひとつ。これは演者であるご本人がそう言っていたので間違いない。地噺です。
長野県は善光寺、ここにある「血脈の印」というものがことの発端。これが印形を額に押してもらうと誰でも極楽往生できるという万能の印で、この印があるために地獄の人口が激減、閻魔大王がこの「商売あがったりな状況」を解消すべく、石川五右衛門を印形強奪に差し向けるというお話。
「浜の真砂は尽きるとも……」と詠んで釜ゆでになり、以後地獄の住人となった五右衛門が長野へ派遣される、という破天荒な噺ですから、まぁあまりマジメに物語を語るよりはそんな「地噺」として進めるのが道理にかなっているんでしょう。この日の船辰師匠もご自身が若いころのエピソードなども盛り込みつつ地噺ながらも端正に仕上げてなかなかけっこうな高座でした。
ところで石川五右衛門といえばご存じの通りの大盗賊。「泥棒の親玉」的存在ですが、辞世の句を詠んだあたりなかなかの教養の持ち主とも見えるし、この噺の中でも「芝居好き」という設定になっていてなんとなく憎めない。じつはあんがい人気者なんじゃないか、という節がある。
そういえばこの五右衛門の他にも「鼠小僧次郎吉」、「鬼あざみの清吉」、「日本左衛門(白波五人男ですな)」などの盗賊が小説や芝居に繰り返し取り上げられて今も名を残しているし、こうして考えてみるとどうも日本人には元来「盗賊」を好む(というと語弊がありますが)傾向があるようで、お酒の肴にも「盗」という字が使われて定着していたりする。すなわち「酒盗」、鰹の内臓の塩辛です。
つまりは「酒が足りなくなって盗みたくなる」ほど旨い、ということでしょう。類似の命名に「ママカリ(ニシン科の魚サッパの別名)」というのがあるけれど、こちらが「旨くて隣家からご飯を『借りる』」のに対して「盗む」わけですからやっぱり酒飲みの業の深さは折り紙付きなんですね。いや、なにも威張れることではありませんけども。
若いころに作業を終えた深夜のこと。さてビールでも呑もうと小銭を手に、まだ終夜営業のコンビニもないころのこととて向かった自販機が「夜間酒類販売中止」の憂き目にあって茫然自失、傷心の末に裏手に見える倉庫のビールケースを前に「いっそのこと……」と犯行に及ばなかったのも今は昔。
涙にくれてラーメンをすすり膝枕を抱えて寝た、とかいう話をしつつワインで食べる夕食時、ワインはまだ残っているのに目の前の料理の皿は空っぽ、何かないかと冷蔵庫を開けたら「日本酒向けの食材」のみ。そんな時に「もしかしたら合うかも」と試してみたらあんがい旨かった、なんてのはよくある話(この辺「地噺」風です)。
今回ご紹介の簡単レシピ「酒盗チーズ」もそんな料理(というほどのものではないですけど)のひとつ。お花見の夜、ビニールシートの上でも簡単に作れるこいつを前に隣の宴席から日本酒を盗んだりせず、お手持ちの白ワインでどうぞ、ってことでまた次回。
【Panjaめも】
●喬太郎師匠による落語解説のHP(愛読してます)。
ここで「紀州」も地噺、と書かれてますね
●wikipediaですが「鬼あざみの清吉」について。
「鬼平犯科帳」にも出てきましたっけ。落語の演目にもなっています。
「武蔵野に はびこる程の鬼薊 今日の暑さに 枝葉しほるる」
この人も辞世の句を詠んでいる