恵美須湯 –無罪放免–

オレは先月の失態を忘れてはいないぞ。
「恵美須湯」を目指して家を出たら途中で道に迷ってしまい、偶然見つけた「日の出湯」の誘惑に負けて、きれいさっぱり「恵美須湯」をあきらめてしまったのだ。そして急遽予定を変更し、「日の出湯」を題材としたエッセイを書き上げた。
銭湯の女神はきっと、そんなオレのことを裏切りものとして軽蔑しているだろうよ。「浮気もの、浮気もの」そう言って、静かにオレの胸を叩きながらののしりたいだろうよ。
そんなわけで、今月は是が非でも「恵美須湯」に入らなければいけないのだ。
浮かれた気持ちはグッと堪え、口を真一文字に結んで風呂道具を用意する。続いて、鏡の前に立って髪の毛を剃り落とし、悔恨の思いを胸に白装束を身にまとう。そうして最後に、そっと両手を合わせてから出家、いや、家を出たのであった。

前回の轍を踏まぬよう、恵美須湯までの道程はしっかりと頭にたたきこんである。予定通り行けば、隣町にある恵美須湯までは自転車で15分たらずの道程だ。
がしかし、またしても恵美須湯が見つからない。
「またダメだべさ。わやだな」
北海道弁で嘆いてみたところで、ないものはない。
次第に疑心暗鬼に包まれてゆく中、黒々とした曇天の空からとうとう大粒の雨が降ってきた。これは試練に違いないのだ。裏切り者に対する仏道修行の雨。吹けよ風、呼べよ嵐!
と、思っていたら、いきなり恵美須湯の煙突が目の前に見えた。とうとう目指す桃源郷に着いた。オレは喜びのあまり、猛烈に加速した自転車ごと恵美須湯の脱衣場に突入したのだった。

下町風情薫る静かな脱衣場では、常連らしき湯客がひとり、全裸のまま椅子に腰掛けて湯上りの体を冷ましていた。
雨に濡れた服を脱ぎ、“HOKUTOW”製のアナログ体重計に乗る。スーパーウェルター級、計量パスだ。
浴場は、竹林の壁絵を配したこじんまりした造りになっている。長方形の浴槽は、右からジャグジー、ジェット、オゾンの3種。湯に浸かる3人の湯客もまた、白髪、薄毛、無毛の3種に分けられていた。
早速体を洗って浴槽に近づくと、目を閉じて湯に浸かっていた3人が一斉に目を開けた。何だか物音に驚いた鳩みたいだ。
ゆっくりとオゾン風呂に足を滑り込ませると、熱めの湯がジワリと体に染みこんだ。
極楽だ。ああ極楽だ。
「どっから来なすった?」
一緒にオゾン風呂に浸かっていた無毛のおとっつぁんが、突然時代劇のような口調で話しかけてきた。
「浅草の方からです」
「ほー、あの辺りも銭湯は多いでしょうな?」
こんな感じで話をしていたら、いつの間にか他の2人も会話に加わってきた。
3人のおとっつぁんたちは、地元商店会の組合仲間なのだという。
他所の銭湯の話や、祭りの話。野球の話や酒の話。しばしの間、そうした話題で3人と話し込んだ。やっぱり下町の銭湯は温かいのだ。
湯と人ですっかり温まったので、3人に挨拶をして風呂から上がることにした。
これで無罪放免。
外に出ると、先ほどの雨はすっかりやんでいて、遠くの夕空が薄桃色に染まっていたのだった。

『恵美須湯』
東京都台東区下谷3-18-9