ジャングルジムが好きだった。
幼稚園の砂場の横にある、くすんだ銀色のジャングルジム。ひょいひょいとてっぺんまで昇っていって、ちょこんと腰掛け、ひとりきりで空を仰ぐ。きもちいい。
もちろん園庭にもジャングルジムにも、子ども達はいっぱいいた。でも、てっぺんでは、いつも「ひとりきり」だった。別にいじめられていたわけでも、孤立していたわけでもないのだけれど。ただ、母とふたりの静かな暮らしの中で、年中熱をだして幼稚園を休んでは、家に籠もってばかりいたあたしにとって、ひとり遊びはごくごく自然なことだったのだ。
その日もあたしは、てっぺんに腰かけて、薄青い空を見あげていた。ぼんやりと、ゆらゆら足を揺らしなが。と、ふいに自分の名前を呼ぶ声がした。驚いて辺りを見まわすと、陽に灼けた黒い手が、下からにょっきり伸びてきた。黒々と短い髪、幼稚園児にしてはごつい肩。フミオ君だった。
フミオ君のことは知っていた。あたしと名前が似ていたから。でも、太い眉と大きな瞳を持つ彼は、いかにも元気そうで少し乱暴そうで、とても仲良くなれそうにはないとも思っていた。その彼が、大きなからだを重そうに持ちあげながら、ひとりきりでやってきたのだ。
てっぺんの、少し離れた鉄棒に腰かけて、フミオ君は「何してんの」とあたしに聞いた。同じように足をぶらぶら揺らしながら。何をしていたわけでもないあたしは答えようがなくて、ただ、フミオ君のみっちり固そうな足を見ていた。だが、彼は返事がないことを気にするでもなく、顎をあげて空を見あげ、そして笑顔で晴れやかに言ったのだ。きもちいいね。
その瞬間、あたしは心に決めてしまった。
フミオ君とケッコンする。いつかフミオ君のお嫁さんになる。
同じ景色を眺め、同じように足を揺らし、同じように「きもちいい」と言う人がいる。兄弟のいないあたしにとって、たぶんそれは「驚くべきこと」だったのだ。家族以外の誰かと、思いを分かち合うことができる。そんなささいな驚きが、恋に形を変えたのだった。
そのくせ、あたしはジャングルジムのてっぺんで、結局ひとことも喋らなかった。彼も、それ以上話しかけてはこなかった。それでも、それからしばらくの間は、たしかにフミオ君のことが好きだった。いつか結婚するのだと思っていた。それなのに卒園する頃には、あたしはもう他の男の子を好きになっていた。近所に住む背の高いミツハル君にぞっこんだった。どこでどう心変わりをしたのかは、すっかり忘れてしまったけれど。
でも、考えてみれば、恋の始まりなんて案外そんなものかもしれない。初恋も、オトナの恋も。いつだって恋は、ささいな驚きから始まるのだ。