九月の空

主人公の勇は高校生。剣道部に所属し、土曜日には市の警察署で高段者と市内を交えるのを楽しみにしている。
どうやら思春期を脱け出そうとしている。かといって青年と呼ぶには今少し。といった勇の心の動きを作者は鮮明に描き出す。たとえば風の描写。

『首を下げると体がぬるくなってしまう。そうなることを勧めてくる誘惑に、屈服する自分を恐れた(12月)…3月前の風も辛らつな奴らだった。頬を殴りつ けてくる透明な塊…充分な手応えがあった・・・歩いている自分がいた…5月に入って急に丸みを帯びてきた…思わずいい気持ちだとつぶやいている自分に一人 で狼狽する…』

作者は12月、3月前、5月に入ってと、勇の感じる風を描き分ける。読者もまた、厳しい冬の風の、暖かい春風の感触を思い浮かべ、同時に勇の青い息吹を感じとる。

風や空気や周囲の風景を擬人化して内面の心理を暗喩する方法は、口数の少ないこの時期の心模様の表現に一層の効果をあげている。
ストーリーらしいストーリーはなく、主人公の周囲、父親とのかかわり、異性に対する心理を広げながら、思春期から青年期へ移る過程を描いたものであるにもかかわらず、あきずに一気に読み通してしまう。

基調になっている剣道に関しては、表現が隅々までリアル。著者はかなりの経験者とみた。

『勇はゆっくりと息を吸い構えた…相手の瞳に勇むの影が、斜めに斬り込んで映って見えた。下がらずに踏み込んだ。肩のところで凍った空気が音をたてた』
と、読み終えたところで思わず深呼吸してしまう。

読後のさわやかさを楽しみながら、「主人公のその後」を想ってみるのも一考。


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作者名:高橋 三千綱
ジャンル:小説
出版:角川文庫

九月の空(角川文庫)