『陰陽師 』シリーズの著者であり、柴田錬三郎賞を受賞(98年)した『神々の山嶺 』など山にも造詣が深く、そして格闘技ファンでもあり、鮎の解禁日にはいそいそと竿を担いで出かけていく、漫画についても番組レギュラーを持つほど……。
その作家、夢枕獏。
“広く深い”経験、知識を武器に書かれる作品群に、老若男女、多種多様なファンがいる著者が、その深すぎる趣味のひとつである「釣り」を重要な下敷きにした歴史小説、それがこの『大江戸釣客伝』である。
タイトルを一読した段階では、「江戸時代に登場する有名釣り人たちの話か?」などと想像してしまうが、そうではない。釣りはあくまでも物語を繋ぐ媒介の役目であり、釣りを愛する二組によって物語は進められていく。
時は元禄、大坂夏の陣を最後に戦火も収まり、文化が発展していったこの時代。釣りを楽しむ松尾芭蕉の門人・宝井基角と絵師の多賀朝湖(英一蝶)の文化人コンビ、そして津軽弘前藩の分家である黒石家の当主・津軽采女。この文化人と武士、それぞれの視点から、当時次々と発せられていった“稀代の悪法”について語られていく。「“稀代の悪法”=生類憐れみの令」は、発令時こそ「犬をかわいがりましょう(要約)」程度だったものが徐々にエスカレートしていき、ついには基角・朝湖と采女が愛する釣りにまで及び始める。
さて、そのときの彼らの行動は……というような、ストレートな進行はもちろんのこと、この物語には他にも様々な要素が絡んでくる。生類憐れみの令の張本人である将軍・徳川綱吉。彼が4代将軍・家綱の後継にクーデター的に就任したことや、その功があった大老・堀田正俊が殿中にて刺殺された事件、それらが謀略である可能性が仄めかされていることや、劇中に時代劇に名を轟かす人物たちも多数登場してくる。采女の早世した妻・阿久里の父はあの吉良上野介義央であり、ご丁寧にも津軽家と播州赤穂藩・浅野家に繋がりがあることも解説されている。さらに先日惜しまれつつドラマシリーズを終了した“越後の縮緬問屋の隠居”と称して諸国を漫遊している水戸のご老公も、(やっぱり)身分を隠しつつまずは文化人側の人物として登場してくる。
実在する元禄時代のフルキャストを使い、かつそこに最大権力への謀略論などもちりばめられている。単純な「生類憐れみの令の行く末」を追う展開にはなりそうもない、いや、なるわけない物語なのだ。
上巻はいよいよ「漁師以外で釣り禁止」という発令が成されたところで終わる。義父の計らいによって就いた将軍の側用人職を訳あって追われる采女、そして綱吉の政策に窒息寸前の基角・朝湖らの文化人、そして町人たち――。謀略説や“忠臣蔵”も含め、上巻の段階ではストーリーの帰結は予測不可能である。一刻も早く下巻を手にする必要があるだろう。
最後になるが釣りに関する記述は子細そのもの。歴史好きだけでなくもちろん釣り好きにも、才人・夢枕獏がお送りする、まさに上巻から下巻へ“釣られて”しまう一冊である。
作者名:夢枕 獏
ジャンル:時代小説
出版:講談社