【白井美樹さんに7つの質問】
Q1:文章を書き始めたのはいつ頃から?
小学校5年生くらいから、散文詩を書いていましたね。季節を感じるような内容で、クラスで共有するグループノートに書き込んでいました。
父が新聞社の出版局で働いていて、休日に原稿用紙に向かって万年筆を走らせるのにあこがれていたところがあります。もう中学校の頃には作家になろうと思い立ち、「悲しみよこんにちは」のフランソワーズ・サガンがデビューした18歳までに、本を出そうと考えていました。部活に忙しくてスルーしてしまいましたが(笑)
Q2:ライターになったきっかけは?
舞踊関係の大学院に行っているころ、父の友人だった方が「ライターを探している出版社があるよ」と紹介してくれたのがきっかけです。
卒業後は、先輩のつてを使って、光文社の週刊誌を紹介してもらって、仕事を始めました。担当者と初めて会ったときに、その人が高校の1年後輩だったのには驚きましたね。
Q3:新人時代はどんな活動をしていた?
最初は、女性誌の仕事を多く受けていました。しかし、キャプション(製品紹介のための短い文章)を書く仕事が多く、長い文章を書いてみたくなりました。そこで、ルポ雑誌や文芸雑誌で、文章を磨きました。
でも、当初は営業らしいことはしたことがありません。偶然知り合ったカメラマンさんの紹介など、人脈でのつながりで仕事をいただいていました。その頃はバブル経済で景気がよかったからかもしれません。入校が終わったら、寿司屋のチケットを渡されて、食べていってくれと言われたりしました。今では考えられませんね。
Q4:楽しかったことは?
一番楽しかった仕事は、新人の頃に担当した日本全国蔵本巡りです。八海山を作っている社長に会ったときに、ちょうどNHKが取材するというので宴会にも呼んでいただき、外に出さない吟醸を水のように飲みました。氷を入れて飲んでるのでもったいないほどでした。
基本的には醸造元がタダで飲ませてもらえるのですが、取材後地元の飲食店に行き、自腹で飲むのをルールとしていました。そのときは、スナックに行って飲みました。
Q5:つらかったことは?
ずっと続くと思っていた大きな仕事がなくなってしまったことですね。こちらの落ち度ではなく、景気や会社の仕組みが変化したことで、コストカットということだとは思いますが、ショックは大きかったです。
体力的にきつかったのは、新聞の仕事で食関係の取材をした時です。神奈川・東京の駅を回って、三浦大根や小田原かまぼことかを紹介し、風景をルポするといったことをしていました。
Q6:ライターを続ける上で心がけていることは?
ライターをやっていく上で基本としているのは、常に5社くらいとお仕事の関わりを持つということです。2年前まで、継続して大きな仕事をしていたのですが、いきなりなくなってしまい収入が激減しました。非常につらかったので、そのときの教訓ですね。
ライターは、受注の波が激しく、一つの仕事をずっとやっていけるという保証がありません。とはいえ、業界によっては、ライバル雑誌で書くことがNGだったりするので、工夫が必要です。媒体によっては、仮名で書いたりしていました。
あとは、プロとして当然ですが、締め切りを守ることです。締め切りは20余年やっていますが、遅延は1回もなしです。取材が入って動かしたことはありますが、単に遅れたことはありません。
Q7:今後の展望は?
一生、ライターで食べて生きたいです。最近は健康雑誌のお仕事も行っています。母親が愛読している雑誌の編集部に営業に行き、とりあえず取材原稿からはじめています。そのほかは、美容や医療で仕事をしていくつもりです。
読書が小さい頃から大好きで、今でも続けています。読書ノートをつけており、もう3冊目です。将来は小説を書きたいですね。
取材を終えて—
同じライターとして、圧倒的に長いキャリアを持つ先輩ということでためになるお話をたくさん伺えた。上品でやさしげに話すものの、厳しい世界を渡ってきた経験談には迫力がある。プロとして当然というが、締め切り遅延ゼロというのはすさまじい。自分も締め切りを守るほうだとは言われているが、遅延の5回や10回は…。フリーであることの不安定さにもいち早く気づき、経営戦略やビジョンの構築も完璧。勉強も怠らず、しかも趣味も犠牲にせず楽しく過ごしている。生き残ること自体が難しいライター業界だが、貴重な指針をいただけた。
【プロフィール】
白井美樹
キャリア20年を超えるフリーライター。
女性誌からスタートして、バブル時代にさまざまなキャリアを積んで腕を磨いた。現在は、健康・医療・美容関連のメディアで活躍中。
趣味は、読書、フラメンコ、お酒。