俳句の季語に「秋猫」というのがある。ネコが一年中で、もっとも美しくなるのが秋だからである。秋猫ねえ……。窓辺でアンモナイト化している愛猫のおなかに目をやる。たしかに秋のネコは太る。
「そんなに脂肪をたくわえて、冬眠でもするつもり?」
愛猫に問うてみる。返ってくるのは、ぴいぷう、ぴいぷう、リズミカルな寝息だけ。脂肪がつきはじめたネコは毛並みもつやつやで、シルクみたい。顔つきは、まるまると、ふくふくと、いよいよネコらしく、身軽だった夏毛の下にふっさりとした上質のアンダーコートを着込んだら、秋猫の完成だ。
食欲の秋。読書の秋。芸術の秋もいいが、ネコ崇拝者のわたしとしては、やっぱり「猫の秋」といきたい。
そんなわけで、ネコとの出会いを求め、奥多摩方面へと散歩する。背伸びした空は、わたしと同じ歩幅でゆったり流れ、蛇行した多摩川も通りと平行して流れている。ほんのり色づいた葉っぱや、ホバリングを楽しむ赤とんぼの群れに出会う。今にも落ちてきそうな柿もこっくり深いオレンジをしている。それらをためつすがめつ歩いていると、屋根でうたた寝するネコと、きっちりお座りするネコに、つづけざまに出会えた。
屋根にいるネコ、通称・「屋根にゃん」(わたしの造語)に出会う機会なんてそうそうない。そういうときは胸の高鳴りを押さえ、絶好のチャンスに感謝しつつ、素早くピントを合わせ、カメラに納める。 引きのアングル、ズーム。連写。露出を変えてみたり、角度を変えて撮影。 あらゆるタイプの写真をきっちり撮り終えたら、欲張らずに、すぐ屋根にゃんにバイバイする。長居は無用。後ろ髪ひかれつつ去ると、またいつかネコが会ってくれそうな気がするのだ。わたしの中のゲンかつぎ。実際にこれは叶っているのでつづけたいと思う。また少し歩いたところで視線を感じて振り向くと、そこにはグレーと白のタビー模様のネコ。額に意味ありげなマークがクッキリ。にゃんこ王国の王子さまにちがいない。など、あれこれ妄想しながらネコとしばらく見つめ合い、もう少し近づいて撮影したいなとわたしが数歩前に出ると、走り去っていってしまった。やはり欲をかくものじゃない。無念。
「屋根にゃん」に限らず、外でのネコとの遭遇率は、そう高くはない。わたしのように田舎町に住んでいて、ネコ探しの散歩をしていても滅多に出会えない。ネコとの出会いはご縁とタイミングに他ならない。ネコが出てきそうな時間帯は、季節や天気によってまちまちであるし、どんなに会いたいと望んでみても、ネコの波長にたまたま合ったときにしか会えないのだ。 普段はパラレルワールドのようにネコと人間は、すぐ真横にいながらもまったく平行に並んだ別々の世界の時間の中に生きていて、 たまにひょっこりネコがこちらの時間に少し顔を出してくれる瞬間がある。 わたしはそう考えて楽しんでいる。 だからネコに会いたい。会いたい。とあんまり強く念じ過ぎるとかえってネコのほうでそれを感じるのか? 不思議なほどにまったく出会えない。
出てきてほしいという気持ちを捨てる。するとおもしろいほどネコに出会える。ネコがあまのじゃくなのか? 傲慢さをネコが嫌うためか? それはわからない。とにかく、ネコは人間の一枚も二枚もウワテ。そのうえ秋猫はポッテリ太って、くびれは皆無。太れば太るほどに魅力的。太ってメタボでかわいがられるなんて、実にうらやましいではないか。わたしもそんな猫になりたい。