東京でありながら、緑ゆたかな山々に囲まれ、古い歴史と民俗学が今も息づいている土地、青梅。春祭り、夏祭り、秋祭り、冬祭り。1年中、かならずどこかで何かのお祭りがある。中でもJR青梅線・宮ノ平駅から徒歩数分に位置する和田乃神社の祭礼は、歴史が長い。そして「子ども奉納相撲」でも有名だ。
現在は青梅市日向和田(ひなたわだ)の鎮守さま・和田乃神社(わだのじんじゃ)。
古くは、旧和田村の総鎮守だったが、その昔、日向和田村と日陰和田村に分村した際、和田乃神社は、『三島明神』、『三島社(三島様)』と呼ばれるようになり、明治維新のころに再び『和田乃神社』と呼ばれるようになったという。
奉納相撲が行なわれる和田乃神社奉納相撲にちなんで、和田乃神社の日向和田山車(ひなたわだだし)の鬼板(おにいた)には軍配団扇があしらわれており、額の「三」の旧漢字は、旧称・三島様の「三」の字であり、三島様は海の神様なので、幕には、波、鶴、亀、えびす様が釣りをする絵が描かれている。
神社では、大山祇神(おおやまずみのかみ)、磐長比売神(いわながひめのかみ)、茅野比売神(かやぬひめのかみ)の三神が祀られている。
境内には、昭和天皇が当地を見学の際、お手植えの枝垂糸杉がそびえている。
和田乃神社の西側には要害山といわれる山があったが、現在は石灰岩の採掘により山ごと削られ消滅してしまった。この神社の敷地のあたりが、宮ノ平塁跡との説があり、神社が建立されている小高い地形や、すぐ脇を流れる沢を堀跡と考えると、城を構えるのに相応しい立地条件であることもうなずける。
通りを挟んで消防署裏手には保育園があり、ここもまた塁跡推定地のひとつ。消防署の裏手がガケのようになっており、そのあたりもあやしい。その説を裏付けるようにすぐ近くには「盾の城」という城跡がある。
※塁……小規模な城のこと。出城
※土塁……敵の侵入を妨ぐため土を小高く盛って固めたもの。土居に同じ
土俵とは神が宿る場所。相撲の前にお供え物を保育園の敷地内には土俵が設けられており、毎年9月の第一日曜日の例大祭の日に子供奉納相撲が執り行なわれている。江戸の昔は本物の力士が来て、相撲をとっていたというのだから驚きだ。
8月下旬。とっぷりと暮れた神社の急な坂道を登って行くと、ライトに照らされて、相撲の稽古をしている子どもたちの影が浮かびあがってきた。
大人たちに見守られるなか、小学生の男の子2人が土俵の上でにらみあっていた。かわいらしい回し姿。しかしその目は真剣そのもの。厳しい指導のもと、幾度となく繰り返される稽古。その奮闘ぶりに見ているこちらも手に汗にぎる。
負けがくやしくて、いつまでも泣いている子がいるのが印象的だった。土俵のまわりでは、肩にタオルをかけた子どもたちが、懸命に友達を応援していた。子供だからと、あなどってはいけない。身体は小さくとも、四股を踏む姿は、力士そのものだ。
力強く四股を踏む姿は、子供であろうと力士である関係者の方にうかがった話では、日曜日以外は例大祭の日まで毎日、子どもたちは夕方から稽古しているそうだ。
和田乃神社の祭礼の1日目の宵宮祭は、舞踊、カラオケ大会が催され、2日目に奉納演芸と子ども相撲が奉納される。
江戸時代からつづく伝統行事に平成生まれの現代っ子たちが参加して、それを親や地域の人々が見守る。人と人とのつながりが希薄になってしまった現代では、もはや忘れさられてしまったかに見える風景が、すぐ目の前にあった。子どもたちの勇姿は、その子たち、そのまた孫たちへと受け継がれ、語り継がれてゆくことだろう。
―取材協力・参考資料―
小幡晋・著「多摩の古城址」
大館勇吉・著「奥多摩風土記」
青梅市観光協会「青梅を歩く」
和田乃神社・奉納相撲関係者のみなさん