7月16日
退院後4週目の診察を受けた。
レントゲン検査の結果「予後は順調」、骨折部はほぼ修復されており、むしろ他のところより頑丈にもなっていよう、とはドクターの説明。
そこまでは順当として、それ以上の医療的見解を得られなかった、という感慨をもつのもまた「患者」心理。一刻も早く患者位置から脱出したいと願うのが患者なのだ。
「せめて今月一杯は、出かける際はコルセットを着用」
あくまでも1ヶ月の入院、以後1ヶ月の自宅療養、完治まで要3ヶ月という初見から脱することはかなわないことのようだ。
患者には患者心理、加療者にはその責任意識があるのだ。
両者が安全値から足を出せる関係性というのも世にあることは承知しているが、そのような特殊な関係性を持つに及んでいない状況では、両者の間には「安全値」しか横たわることはない。
うすうす承知していた結果ではあった。
「もうじたばたしない」と腹をくくっていたので、さほどの失望感はなかった。
トンネルを抜けてみると自覚していた以上にじたばたしていたと今さら実感する。
入院して2、3日ほどの物理的最悪状態から抜け出すと、今度は退屈と倦怠と闘わなければならなかった。退屈と倦怠のそのまた奥に不安という巨大な魔神が両手を広げて立ちはだかってもいた。
「不良患者」のレッテルがついているのを承知で病棟を抜け出しては玄関先のタバコ場で煙を吐き、変化のない病院生活の憂さを晴らし、不安を紛らした。
「もう懲りたか?」と問われれば、「否」と即答はした。「来年はやるよ」と胸を張り、「再来年はキリマンジェロだよ」など強がり「いやヨセミテを攀じるかな」など冗談めいて「元気ですよ」アピールを忘れなかった。
その気持ちに嘘偽りはなかった。09年の企画に対して支援してくれた周りの人たち、協賛についてくれた石井スポーツさんや機器メーカーさん、トレーニングの指導にあたってくれたコナミスポーツのコーチ、スタッフ…。たくさんの人たちの期待もまた、5月17日の骨折によって突如、断たれてしまったことを思うと、ただただ申し訳なさで身が硬くなった。なんとしてでも怪我を克服してさらに強化して来年・2010年を目指す、それしか弁明の術はないと覚悟も決めていた。
病院でのリハビリを開始すると、ことさら熱心にあたった。担当以外の理療師が「どういう患者」か訝るほどに。筋肉の衰えを少しでも食い止めたいということももちろんあったが、そうでもしていないといられないというのが内心だったろう。外科病棟の他の患者のように「歩けるようになるかしら?」だけでは納まらない「その先を目指せるのか?」という不安から解き放たれたいと願えばこそだった。
1ヶ月の入院生活が体に及ぼした影響は予想以上に大きかった。骨折部位の修復には必要不可欠な安静生活は返って身体全体の健康を損ねた。自律神経は失調をきたし、体温は35度台、血圧は90を切った。
6月20日、「元気になった患者」で退院はしたが、いざ外に出てみるとただの「病み上がり」でしかないことを痛感させられた。退院直後から出かけた湯治から家に戻ってくると「1日も早く病み上がり状態から脱出せねば」という焦燥感が日に日にますます膨れ上がった。
「荒療治も必要なのではないか」とジョギングなど試みるが、挙句、頭痛に襲われる始末。一向に回復とそれ以上の期待を確かなものにできず、結果、焦燥感を募らせるばかり。
入院中、見舞いに再三、足を運んでくれた友の死もまた不安と焦燥を大きくした。
つい昨日まで隣に笑っていた存在が何の前ぶれもなく突然にかき消えてしまうこともあるのだという喪失感はやがて身に返せば「もう、いつどんなことが起きても不思議ではない老域に一層突入してしまったのだ」という失望感を誘い、なおのこと「だからこそ急がなければ」「もう時間がない」という焦燥感を引き出した。
確かにモンブランは逃げない。しかし、何もしなければ、ただでさえ加齢による衰えからは到底逃れられない。1分1秒、刻々と落ちていく身体力を上回ってパワーアップしていくことは並大抵の努力で足りようはずもないと思えば、暗澹たる想いに胸が塞がった。
折れたのは背骨だけではなかった。
折れた第2腰椎がダルマ落としのようにずれないで辛うじて重なっている状態と同様、「頑張れば必ず報われる」という可能性を信じる気持ちもまた首の皮1枚の風前の灯で危うかった。
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