なぜに私はヒマラヤにいるのか!?
入山3日目。標高3000mを超えると、辺りの風景がグンとヒマラヤらしくなる。
せっかく結んだ縁も遺憾ながら消失することもある。ふとしたことで新しいつながりが生れ、そこから想像もつかない展開がもたらされたりもする。
モンブラン登頂を導いてもらおうとアルパインガイドの本郷博毅氏についたが、残念なことに応募者不足でツアーそのものが催行ならず、代わりにマッターホルン山行に参加することになった。
山道沿いの土産もの店
「そんなんじゃあ、どこも登れない」
言われながら、懸命にトレーニング山行に励んだ。本人にしてみれば精一杯だったが、一向に顕著な進歩、体力の増強が見られず、精神的にもだんだんに追い込まれていくストレスフルな毎日だった。
「ヒマラヤがどうのなんて、マッターホルンが終わらないと考えられません」
ヒマラヤ・ヤラピーク山行に参加、不参加の諾否を問われても、とてもじゃないが、考える脳みその余分なスペースはこれっぽっちもなかった。
10月30日の昼ご飯。
精進揚げときつねうどんにもびっくりしたが、天つゆの薬味の大根おろしとしょうがが富士山盛り。
芸が細かい!!
10月30日の晩ご飯。青菜のゴマ和え。ご飯にはふりかけ
小さな集落をいくつも通りながら、少しずつ標高を上げていく
「マッターホルン、終わってからじゃ、手続き上遅いよ。とりあえずエントリーしとくから」
「はーはー…」
まずは本郷さんの強い勧めがあったればこそ、ヒマラヤの地を踏むことができた。
次に恵まれた登山ライフは単にいい人たちに偶然にめぐり合えたから、というわけではなく、本郷さんが幾度かのヒマラヤ山行でいつもお願いしてきた現地ツーリストとこれまでも継続した関係を保ってきた経緯があったのだ。意思の疎通が築かれていたから、ツーリストのベストな人員と環境構築の手配を可能にしたのだ。
10月31日の昼ご飯。肉屋の店先で揚げているコロッケのような味わい!
11月1日の晩ご飯。うわーッ! ギョウーザ!!
もちろん、ヒマラヤ独特の「登山文化」の伝統も大きい要素だろう。徹底したホスピタリティーは20世紀からのマロリーさんだのヒラリーさんだの主にヨーロッパ圏の登山史ととともに育てられてきたのだ。
我々一行をガイドしてくれたシャルパ4人のうちの頭・サーダーのオンチュウさんが他のシャルパ3人やポーター、コック、キッチンボーイなどなど隊全体をいい状態に保つべく、隅から隅まで気を配ってくれる。隊の人たちも心得ていて、行き届いたケアを提供してくれる。
当日の移動を終えてキャンプ地でノンビリした時には、お互いカタコト英語で話しをしたりもする。なんでも先回の三浦雄一郎さんのエベレスト、野口さんのエベレストにもシャルパとして同行し、チョオユーやアンナプルナなど8000m峰を幾つも登頂したと、胸を張って話すオンチュの横顔には「ヨーロッパのサーバント文化の果実では!?」という勝手な懸念をきっちり否定する高い誇りが伺えた。
※シェルパ:ネパール東部高地に住む少数民族。独自の言語シェルパ語を持つ。チベット語で「東の人」を意味する。もとは17世紀から18世紀にチベットからヒマラヤ山脈を越えて移住してきた。
20世紀に入り外国人のヒマラヤ登山が始まってから高地に順応した身体を買われて荷物運び(ポーター)として雇われるようになった。その後、登山技術を磨いた彼らは案内人(ガイド)としても雇われるようになり、今では彼ら無しではヒマラヤ登山は成立しないと言われるほど重要な存在となっている。収入面で同国の平均年収や都市生活者の年収を上回ることでも知られる。(ウィキペディア参照)
登山道の傍らの集落で。
女たちは老いも若きも日がな一日、せっせと機を織り、糸を編む
ヤクの毛からより出した糸で編まれた防寒帽子とミトン
何かに向かって行動する。「何か」を達成するためには、恐らく全ての細胞が無意識に同じ方向を向いていたりするのではないだろうか。偶然の重なりのように見えて、実は無意識の意志ともいうべき執念が働いて、ひとつの頂へと結実していく。
それはまるで、シェルパ族の女たちが紡ぐ織布のように…
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