銭湯たるもの、“終い湯”間際は閑散としているのが常である。
しかしここ『梅の湯』は、夜も11時を回ったというのにひどく混雑していた。銭湯激戦地区の浅草にあって、『梅の湯』はいわゆる勝ち組に分類される銭湯なのであろう。「なかなかヤルな」私はそうつぶやきながらケロリンの黄色い桶を確保すると、空いているカランを見つけて素早くそこに陣取った。
銭湯の顔とも言うべき浴場正面の壁には、シックな色合いのモザイクタイルが品良く貼り込んである。肝心の浴槽も、小ぶりながら弱電風呂やジェット風呂などに区分けされ、客心をくすぐろうとする努力の跡がうかがえる。「なかなかヤルな」私は辺りを見回して、もう一度そんなことをつぶやいた。
隣を見ると、毛むくじゃらの男が鏡をのぞき込みながら一心不乱にヒゲを剃っている。
「ヒゲより背中の剛毛を剃った方がいいぜ」そう思ったが、そんなことは他人の私が口を挟むことではない。髪を洗い終えてゆっくりと立ち上がると、視線の先に“スチームサウナ”が見えた。
私は早速、男の勝負をすべくサウナ室の扉を開けて中に突入した。
薄暗い室内には、すでに3人の先客がいた。
達磨顔のオヤジ、髪をきっちりと七三に分けたサラリーマン風の男、さらには白くてポチャリとした若者。室内はスチームサウナ独特のものすごい湿度に包まれている。シューシューと音を立てて立ち込める蒸気の中、達磨オヤジがアグラをかいて虚空を睨みつけている。残りの2人はすでに息も荒く、もうじき脱落することが予測された。
どうやら達磨との一騎打ちになりそうだな、そう確信した私は、気持ちを静めてそっと目を閉じた。
約2分後、七三が「うへぇ〜」とおかしな声を上げてサウナを飛び出して入った。残るは達磨と白ポチャだ。なんだか常連風の達磨オヤジに対し、新参者の白ポチャと私が連合を組んで勝負している図式に思えた。
「白ポチャよ、ここはオレに任せてもいいんだぞ」心の中でそう呟くと、まるでその声が聞こえたのかのように、彼はゆらりと立ち上がって心なしか無念な表情を浮かべてサウナを出ていった。白ポチャが扉を開けて出て行く際、「後は頼みましたよ」とばかりにチラリと視線を投げかけてきたのが分かった。
こうなったらもうヤルかヤラレルかだ。
北国出身の私は、元来暑さに強い方ではない。しかし今はそんなことを言っている場合ではなかった。サウナの勝負。それは、男同士の真剣勝負なのだ。
刻一刻と近づいてくる限界。さすがの達磨オヤジも、先ほどからゼーゼーと苦しそうに息を吐いている。私もこの時すでに、身の危険を感じほどに追い込まれていた。
その時だ、オォーという地の底から響いてくるような唸り声を上げて、ついに達磨が立ち上がった。ゆらゆらとした足取りでサウナを出てゆく達磨オヤジのあまりにも赤い尻を見て、私はこの熾烈な戦いに勝利したことを実感した。
「勝ったぞ……」そう呟くと、思わず目頭が熱くなった。
立ち込める蒸気の中、私は両手の拳を天高く突き上げて、ひとり勝利の雄叫びを上げたのだった。