vol.48:木村憲司拾った命を山岳界のために!

昭和の日本山岳史を紐解けば必ずその存在を目にする木村憲司氏。登山家の中ではもはや伝説となっている。登山家のつてをたどり、今回お話を伺うことができた。お会いした木村氏は物静かで、昭和21年生まれとは思えないほど若い印象。とつとつとした話しぶりだが、何というか迫力がある。数々の死線をくぐり抜けたオーラなのだろうか。圧倒されてしまう。

●亡き学友の遺品を手に山に登る
「世界のあちこちで初登ルートを開拓するという偉業を成し遂げた登山家が、最初に山に出会ったのはいつ頃なのだろう。


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ローデンボーデン付近からのマッターホルン
(国際山岳ガイド・篠原達郎氏撮影)

「中学生の時に丹沢をぶらぶらしたりしてたのですが、本格的に山を始めたのは高校時代です」
高校に入って隣に座っていた人間が夏前に事故で亡くなった。それほど親しくはなかったけども、「隣に座っていた木村がクラスを代表」ということで葬儀に参列した。そこで、親御さんからもらった遺品、それが山の道具だった。
「純粋な頃だった(笑)ので、使わなければと」

なんとドラマチックな出会いなのだろうか。こうして木村氏は、近くで募集している山岳会「東京恋峰クラブ」に入り、山びたりの生活が始まる。

「毎週のように穂高や谷川、剣などに行くようになりました。そして鷹取山などのゲレンデで、岩登りを中心にやってました」
めきめき腕を上げた木村少年はそのうち、谷川岳・一の倉登攀などにも頻繁に出かけるようになった。無断で。
谷川連峰で唯一の岩壁・一の倉はそれ相応の経験とスキルがないと登攀は難しい。当時、高校生の入山は禁止されていた。早晩、山岳会の知るところとなる。
「高校生がそんな危険なところに登っちゃいけないってことになっていたので、半分クビになっちゃった」
危険だから禁止されているのに、余裕で何回も登ってしまうところに、大物の片鱗が伺える。大学・日本大学理工学部建築学科入学と同時に「JECC」に移ることになった。

「JECC(ジャパン・エキスパート・クライマーズ・クラブ)」は、当時「恋峰クラブ」で岩登りをやっている人たちが別れて、加藤滝男氏を中心に設立した組織だ。

●山へ行くために夜学を選び昼間は働く
学業と山の両立は大変だったのでは?
「あえて夜間に行きました。山に行くために、昼間働いて資金稼ぎしなければならかったんです」


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モンテローザ山頂からモンテローザ北峰を見下ろす
(国際山岳ガイド・篠原達郎氏撮影)

何をするにも山が最優先。普通の人間には理解しにくい行動だ。とはいえ、山びたりで日大にすんなり入れたのもすごいが、大学3年のときに2級建築士、卒業後すぐに1級建築士の資格を取っているのもさすがだ。体力と意志の力が優れているのだろう。
「大学山岳部にも入ったんですが、1回行って馬鹿馬鹿しくなって。体力つけろと言って、すごい重い荷物を持たされたんです。登山に意味がない重さで、これじゃ体壊しちゃうよと思いました。そのときは帰っちゃったけど、次に鷹取山に行くときに呼ばれました。そうしたら、皆さん大変、お上手じゃないんですよ(笑)。昔の麻ザイルを持ってきていて、「こんなの切れたらどうするんですか」と言ったら、「じゃぁ登ってみろ」と。
その攀じりっぷりに山岳部の面々が目を丸くしたのは言うまでもない。
「これは自分に合っていないなと思って辞めました」

新入生にしてすでに、その技術と経験は大学レベルをはるかに超えていたというわけだ。

2年後には、JECCのメンバー6人と今井通子氏率いる「東京女子医大ヨーロッパ・アルプス高所医学、登山遠征隊」に参加し、マッターホルン北壁やモンテローザ、モンブラン、エギュード・ド・ミディ南壁を次々制覇。さらに2年後、グランド・ジュラス・ウォカー稜に4人で登り、その翌年には夏季アイガー北壁に成功した。

知らない人はさっぱりかもしれないが、ここに出た山や壁は世界最難関ばかり。難しいだけでなく、たくさんの人が命を落としている危険なところでもある。これらのチャレンジで、木村氏の名前は世界でも知られるようになった。

●アイガー北壁で九死に一生を得る
アイガーはスイスを代表する山で、標高は3975m。中でもその北壁は1800メールの断崖絶壁。登攀は困難を極め、グランドジョラス・ウォーカー稜、マッターホルン北壁とともに3大北壁と呼ばれている。
それを夏季ばかりか、よりによって、厳冬期登攀にチャレンジすることになる。
森田勝。岡部勝、鳥羽祐治、小宮山哲夫らがパーティー。

「あと2ピッチくらいで終了点だったのに、古い残置ハーケンがあって、雪落としして捕まっているときにすぽーんて抜けちゃったんですよ。ちょっと油断してたのかもしれない。5mくらい落ちたらアイゼンが刺さって、足首を粉砕骨折しちゃって」

なんと「ころんで膝小僧すりむいた」ぐらいの話しぶりにも目をむくが、バイルで骨折部を固定し膝にアイゼンをつけて登頂するつもりでいたというのには、開いた口も塞がらない。

とりわけ骨折は雪山では致命的だ。骨折部分の凍傷が一気に進み、取り返しのきかない事態になる可能性がある。
「オマエがどうかなるんならオレも一緒に死ぬぞ」森田氏がボロボロ泣きした岡部談は今も語り草として知られている。


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「それで分かれてビバークしてたら、下の山岳会で救助するから動くなと言われて。翌日総出で救助してもらいました。救助がなくても、死なずに登れると思ったけど、まぁ、そうしたら足は切断したでしょうね」

相変わらずとつとつとした話しぶりだが、木村救出のためのヘリがアイガー上空を騒がしく飛び交い、グリンデルワルト・スイス一帯の交通は一時遮断など、当時のメディアにも大々的に報じられる山岳捜索史上に残る大捜索だったのだ。
トータルで200針の手術で、その後は治療に専念。日本の病院だったらたぶん切断だっただとか。木村氏、23歳の1月のことだった。

木村氏と別れたパーティーは登頂を果たしている。厳冬期アイガー北壁初登の記録を残した。


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モンテローザ山頂付近からのマッターホルン方面を望む
(国際山岳ガイド・篠原達郎氏撮影)

●建築の仕事をはじめるものの山は忘れがたく
「怪我が治ったのでマッターホルンに行こうとか言っていたとき、ちょっとスキーしていたらまた骨がぽきって折れちゃって。また腰の骨を取って継ぎ足しました。怪我が予想以上に酷かったんです」
聞いているこちらが痛くなってしまうような話だ。そして、シャモニーをぶらぶらしているときに、フランス人の女性と知り合い結婚することになる。

「とりあえず建築の仕事をはじめて、日本とフランスを行ったり来たりしてました」
それでも、脚が治ったら、ちょこちょことは登っていたそうだ。当然のように、また山への渇望が出てくる。

「1級建築士として役所の仕事をしていると、その期間中は現場代理人なんで抜けられないんです。脚の怪我が治るまでは、生活もあったのでやっていたけど、まともに山に行こうとすると難しい。そこで、30過ぎくらいに、不動産業をはじめました。自分がいなくても大丈夫だから」

なんともうらやましい話。しかし、当然のようにこのチョイスをするあたり、さすが生粋の登山家なのだ。

●あのまま登っていたら死んでいる、とよく言われる
「アイガー北壁での事故を含め、3回死にそこなった」

厳冬期の穂高。木村氏が荷物を持っていて、先行者がラッセルして雪崩が起きた。木村氏は端にいたので雪崩にはじかれたが、巻き込まれていたら助からなかった。
谷川岳烏帽子岩。
「初登で、最後のハーケンを打とうと思ったらすぽーんと抜けて20メートル落ちた。下から見た人に後で聞いたら斜面に綺麗に落ちたそうです。頭から落ちてたら即死でしたね。ぶら下がって、もう1回登りましたけど。背中は打ったので3日間うなってましたよ」

雪崩に巻き込まれても、登山を続ける。岩壁から落下したのに、そのまま登る。もうタフネスぶりに言葉もない。


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アイガー南西稜を望む
(国際山岳ガイド・篠原達郎氏撮影)

 「アイガー北壁の一番上で、真冬に事故を起こして生き残ったのは私だけ。そう言う状況では腕と言うよりは運ですね」

飄々と語る木村氏。そこまでの危険を顧みずに山に登るのはなぜなのだろう。

「あえて言うなら、充実感がすごい。私は中学のとき学校の代表で駅伝に出るなど、多少スポーツをやっていました。しかし、山に比べると充実感はそれほどでもなかった。しかも、山に登りはじめると自然に目標がエスカレートしてしまう。山のいいところでもあり、悪いところでもある。あえていえば、自然とのやりとりが好きなんでしょう」

アイガー北壁での事故がなければ、さらにエスカレートしていたと言うこと?

「みんな言いますよ、落っこちてよかったと。あのまま登り続けていたら、今頃は死んでいるよと」

「生と死が手をつないで仲良くしている」ような極限状態に挑み続けていれば、いずれ最悪なパターンに陥る。木村氏と同時代を生きた名クライマーたちの多くも、そうやって命を落とした。まさに、アイガー北壁で拾った木村氏の「今」なのかも知れない。


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シャモニーにて

●日本モンブランクラブ
木村氏は2007年まで日本モンブランクラブの会長を務めていた。日本モンブランクラブは、日本とフランスの山岳会、スキー界の橋渡しをする組織で、2002年10月に設立されている。

「木村、シャモニー市を通した仕事をしないか」と問われ「山のことは日本で多少口がきける」と応えたら、シャモニーのガイド組合会長から宣伝を兼ねながら日本で活動してくれと依頼されたのが、日本モンブランクラブ設立の発端になった。

シャモニー・モンブランガイド組合は1821年設立された世界で一番古い山岳ガイド組合。日仏の山岳会交流に尽くした功績が認められ、フランスの推薦で、IKAR-CISA(国際山岳救助委員会)にも加入している。

「国際レスキューのメンバーに入れてもらったので、日本にもレスキューを浸透させ、他の国からも認められたいですね」

どちらも、木村氏以前の日本山岳会では入れなかった組織だ。輝かしい経歴とその後の献身的な努力が実を結んだのだ。
今後も、日本の山岳会のために、国際的な活動を継続していく。日仏山岳会交流を軸として、さらに国際交流が進めば、日本の登山史に新しい風を巻き起こすだろう。 近い将来、日本の山登りが変わる。日本の山、岩壁に世界中のクライマーがどっと押し寄せる、なんてことも…

– 用語説明 –
<ハーケン>
安全確保のために、岩の割れ目に打ち込む釘。語源はドイツ語のHaken。
<アイゼン>
氷や雪道を歩く時、靴底につける金属性の爪のこと。語源はドイツ語のSteigeisen(シュタイクアイゼン)の略。
<ピッケル>
杖の先が鋭利になっており、雪山など滑りやすい所などで氷雪面などに刺して歩行を補助するもの。語源はドイツ語のアイスピッケル(Eispickel)。
<バイル>
氷壁登攀専用のピッケル。
<ビバーク>
野宿、露営すること。語源はフランス語のbivouac。
<ラッセル>
登山用語で雪を掻き分けて道を進むこと。雪かきすることをいう。アメリカのラッセル社が開発した、雪かき機能を備えたラッセル車の呼び名に由来している。


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【プロフィール】

昭和21年10月21日生まれ

登山家

国際山岳救助委員会日本代表