話し出したら止まらないその活弁。舌を巻く記憶力に驚愕し、山・岩への絶愛が胸を揺さぶる!!
気がつけばガイドへの道を歩んでいた…
小玉:最初の登山はいつ?どこへ?
●篠原:父親と小学校5年生のころに高尾山に登り、それから興味を持ったんです。ロープウェイで頂上まで行って、下りは歩いて降りてきたんです。そしたら、ロープウェイで行ける所を歩いて降りて来れるのは素晴らしいなと思いました。
その後で「山に行きたい」と言たら、親父が、だったら妙義がいいということになり、当時、地図を買ったら、表妙義、裏妙義とあって、地図にも興味を惹かれました。どっちに行くか訊いたら、裏の方が面白い。丁須ノ頭( ちょうすのかしら)に登りに行こうと親父が言うので、小学校6年の秋に行きました。それで、すっかり山を好きになりました。
丁須ノ頭( ちょうすのかしら)に登る、登らないで、ウチの親父と喧嘩になって、「絶対、登るなっ」て言われたけれども、なんとか登って、くさりに捕まって降りてきました。今思うと滑ったら落ちてしまいます。命がない。親父が反対するわけですよ。その後は、中学時代は友達と登って、高校時代は山岳部に入りました。
中学の時は、家からがんばったら3時間くらいで行けるので奥多摩に自転車で行って、山に登ってまた自転車で帰って来る。親父には山はやめろって言われてましたけど、「うるせー」って…。
小玉:高校の山岳部は、クライミングはダメですよね?
●篠原:そうですね、都立高校だったので、基本的には冬山とクライミングは禁止されてました。でも、先輩たちが登っていて…岩登りに連れて行ってもらったりしました。ただ、不良会員?なので、あまりトレーニングはしなかったんですね。
小玉:大学時代も山岳部に?
●篠原:と言いたい所ですが、大学は、アーチェリー部なんです。初めに山岳部に入ろうかなと思って、部室に行ったら、今は、東海大学の山岳部ってK2に登ったりして、すごいじゃないですか。ですが、私が入学するころにヒマラヤで事故があった影響で、大学山岳部自体が衰退していたこともあって、部室に誰もいないんです。そしたら目の前でアーチェリーをやってて、「ちょっとやってみないか」って言われて、やってみたら、「非常に腕が良い」「君は才能がある」とおだてられた。それでなんとなく入っちゃった。一年生は奴隷で、二年で平民になって、三年になると天皇陛下みたいになって、いつのまにか卒業に。ですがアーチェリー部は、入ってましたけど、入っているだけで、ほとんどやっていません。席をおいていただけ。
小玉:大学時代はアーチェリー部で、山は行ってないんですか?
●篠原:山は友達と登ってましたね。
小玉:そうすると本格的な日本の尾根地帯の登山というのは、友達と?
●篠原:そうですね、友達と、最初は一般道を歩いて、後は自分たちで岩登りに行ったりだとか、知り合いに連れて行ってもらったりしました。
小玉:ぐーっと入り込んでいったのは、西武(西武デパート)に入られてから?
●篠原:西武に入ってからですね。西武入る前に、大塚商会にちょっといたんですよ。入ったんだけど3ヶ月で辞めました。営業成績はよかったんですが、辞めて遊んでたんですよ。
友達が浪人だったりしたので、私が卒業していても、山に行っている友達は大学生だったんです。なので、山に行かないって誘われると、「だったら、仕事を辞めて山に行こうかな」って。
その後、西武で「スポーツが大好きで腕に自信のある人求む」という広告が出ていて、西武は通勤距離も近くていいし。履歴書書いて、面接に行きました。
「君は登山、クライミングが好きなんだね」と言われて…
それで西武に専門職で入社しました。
小玉:会社辞めてまでも行きたかった山って、どこなんですか?
●篠原:日本国内です。今から40年前なので海外にほいほい行く時代ではないですし、学生なので。
それで、西武に入って、仕事として携わっていたのが販売と販売促進。クライミングや登山道具を売ることと、売るための販売促進。販売促進は自分で企画が出来て面白いんです。当時、アドバイザーで色々な人がいて、何をしようかなと相談して、登山教室をしようということになった。土日は、クライミングや登山で、三ツ峠に行ったりしました。平日は店頭で販売。お客さんに、「西武スポーツのクライミング教室に参加すると1割引になる」とか、「だから是非ウチで買ってください」という戦法。ですから、ガイドに近い仕事は西武に入った時から、やってたんです。
小玉:そのころは、日本には、まだ、ガイド協会などはなかった?
●篠原:正確にいうと、日本のガイドの歴史はややこしい。一番初めのガイドというのは、第2次RCC(第二次世界大戦前に存在した日本初のロッククライミング同人であった「ロック・クライミング・クラブ」を継承発展する目的で1958年に設立された山岳会)の奥山章さんが、エベレストが終わった後に、こんなに山が好きで登り込んでいるんだったら、日本でもガイド組織があってもいいんじゃないかと、社団法人日本アルパインガイド協会を作ったんですね。他にもガイドはいたけど、バラバラだった。それが1971年ころの話。
それから、アイガー北壁初登攀50周年記念というのがスイスであったんですね。北壁には日本で馴染のある方は長谷川恒男さん。有名なところでは今井通子さん。加藤滝男さんらが登っているんです。それで、50周年でアイガー北壁にゆかりのある人が世界中から集まった時に…
――「Tsuneo Hasegawaは、何をしているか?」
ガイドをしている。
「何人ガイドがいるんだ?」
日本では約30人。日本は小さな国で、東洋にあるけれども、山においてはかなり昔から頑張っている。8000m峰のマナスルにも初頂しているし(1956年今西壽雄初頂)、アルプス三大北壁の冬期単独登攀も日本人が(長谷川恒男)初登している。
「だったらば、日本には他にガイドはいないのか?」
いないことはないけどバラバラだし、あなたたちの国とは違う。
「では、まとめて国際ガイド連盟に入らないか?」――
というふうに話が運んでいって、長谷川恒男さんや今井通子さんらが日本を束ねてガイド連盟を作ろうというので創設されたのが88年。そして国際ガイド連盟に加入しました。それが今の組織の始まり。
その後、資格制度の統一化、ガイドの資質の向上のために、日本山岳ガイド連盟の組織を社団法人日本アルパイン・ガイド協会に組織集約し、2003年に社団法人日本山岳ガイド協会と名称変更。2012年3月21日に公益社団法人として認定され、「公益社団法人日本山岳ガイド協会」へと移行しました。
現在、会員数が1200名くらいかな、下部団体が30個くらいある。その下部団体のひとつがJAGUなんです。
小玉:プロフィールにある「02年の4月にジャパン・アルパイン・ガイド組合を設立する」っていうのが、今おっしゃったJAGUですね。
●篠原:そうです。鈴木昇己さんを代表にして、私や保科雅則さん他5名で新しい組織を作ろうと立ち上がりました。団体として登録するには10人いないと登録ができなくて、私たちの知り合いを募って12人で設立しました。
JAGUは、どこに所属しているかというと、ガイド協会(公益社団法人日本山岳ガイド協会:Japan Mountain Guides Association)に所属している。JAGUは、今20人しかいませんから、残り1180名くらいの方が、どこか他の組織にいる。ガイド協会に所属していない人もいる。
小玉:地域で組織されたガイド組合などですね。
●篠原:たとえば屋久島なんかは今年の夏、入って来ましたね。富士山は入っていません。
でも、日本にはガイドの法律がないので、誰がガイドをやっても問題はない。明日から小玉さんが小玉ガイドスクールって募集してガイドをしても日本では問題がないんです。けれど、小玉さんがフランスでガイドをすると、フランスは国際ガイド連盟に入っている国ですから問題が出るわけです。小玉さんが韓国に行ってガイドをしても、韓国は国際ガイド連盟に入ってないので違反にはならない。ネパールもそうです。でも、ネパールは今後入って来ます。ただ、そうなってきた時に、今までのいろんな人がガイドに携わる仕事をしているので、そのあたりの線引きをどうするかが、今後の課題になります。
小玉:国際ガイド連盟というのは?
●篠原:国際山岳ガイド連盟は1965年、スイスのツェルマットでイタリア、スイス、フランスとオーストリアの山岳ガイド協会代表者の会議が開かれ、そこで設立されたんです。1966年、最初の規約が制定されました。公益社団法人日本山岳ガイド協会(以下ガイド協会とする)は国際山岳ガイド連盟に加盟していて、国際山岳ガイドを認定できる日本での唯一の機関になります。
連盟加入国では山岳ガイド資格は国家資格として認定されています。たとえばフランスでいうと、国家資格を取得できるフランス唯一の組織はフランス国立スキー登山学校: ECOLE NATIONALE DE SKI ET D’ALPINISM (ENSA)ですが、入学できるのは、指定された55の登山コースすべてをクリアした人に限られる。毎年の応募者は200人以上、実技や面接などでふるい落とされ、入学できるのは50人ほど。入学後は実地訓練が毎日10時間近くというハード&シビアなものです。
小玉:ガイド協会に加入していないと、国際ガイド認定試験を受けることができないのですね?
●篠原:ある県のなんとかガイド組合があったとして、そこの人間が国際をとりたいといった時に、その「なんとか組合」が前述のガイド協会の下部団体として所属していれば、協会に申し出て、国際ガイドの試験を受ければいいのです。
国際ガイド連盟に日本の組織が入った時に、入るイコール全員が国際ガイドだと解釈して、試験しないで国際ガイド証を発行してしまった。とんでもない問題が出て、日本自体が国際連盟から追い出されそうになった。それから、ちゃんと試験をしましょうというので、試験制度を当該国に学んで、制度を確立して国際ガイドの資格を発行するようになった。ですから、国際ガイドの資格は日本で取得できます。
小玉:篠原さんの時は現地にいかれましたか?
●篠原:私は日本でとっています。10年以上前です。ただ、その前に日本の国際ガイドは、まだあまいというような評価もあるように感じて、98年にエンサに研修に行きました。自主研修ですね。その後、日本でとっているんです。さらに私はスキーの部門が弱いので、それも自主研修に行っているんです。
小玉:国際ガイドは日本で何人くらいいらっしゃるんですか?
●篠原:先ほどの話しにも出たように88年に日本が国際ガイド連盟に入った時にガイド協会には、会員がおよそ300人いたそうです。勘違いがあって、その人たち全員に認定証を発行してますから。一度に300人も資格取得したので、「おかしいな?!」というので、いわばフランスから査察が入ったわけですね。
「オレのことをガイドしてみろ」と。
当時は長谷川恒男さんらの存在もあったので
「さすが素晴らしい」「君はフランスのガイド以上のものがある」となった。
実際、極端なこと言ったらザイルと洗濯ひもを間違えてもってきちゃったりするよう人もいたんですよ。
小玉:???
●篠原:ま、それは冗談ですけど…
小玉:またー!(笑)
●篠原:だからといって「日本はクビだ」って言われて、「はいそうですか」と取り消すわけにもいきません。国としてのプライドもありますから。
ただ、年会費が3万円かかるので、ガイドはやったことないし、やる気もないし、山に登ったこともないという人や、たまたま名前を貸しただけで国際ガイドになったというような人は、自然消滅していくか、幽霊資格者で資格更新されていない。
それから試験制度になって、2、3年目の合格者が私なんです。なので、試験でとった人は、JAGUの中では4人くらい。
紆余曲折!クライマーズスピリットは死なず!!!
小玉:競技クライマーとしてやられていた時期もおありと伺いましたが、いつごろ?
●篠原:80年の後半、30歳になったくらい。人工壁が出始めたころ、競技も盛んになった。一番初めの競技は76年に中央アルプスで開かれたスピードクライミングだった。その後にフリークライミングが出てきて、早さよりもグレードを追いかけるようになる。
より高いグレイド、内容と、質と困難性を求めるように傾いていった。当時、日本のトップでやっと12、今では14が当たり前ですけど、80年代は12といったら神様みたいな位置なんです。だから12目指して頑張るわけです。
で、ある時、ヨーロッパに行って帰ってきたら、西武で私が指導した人の方が登れるようになっているんですよ。不思議なことに、10とか11くらいなら、さぼっていてもセンスで登れるんです。12は狙いにいかないと登れない。なので、同じルートを繰り返しトライしていれば、そっちの方が登れるようになるんです。
それで、城ヶ崎に行った時に、12が登れなくて「これは、いかんぞ」「山なんて行ってたら登れるわけがない」「ヒマラヤなんか行ってたらクライミングがヘタになる」「12登れないのに山に行っているヒマはない」と思ったので、その時に山を辞めたんです。4年くらい。そのきっかけになったのが88年の日原の開拓なんです。御前岩というのは鈴木昇己さんが見つけて開拓したんです。大変に刺激を受けました。
「これはいかん。13は登らないと」と思って、それで大会に出たりしました。91年にジャパンカップを勝ち抜いてワールドカップにも出ました。
小玉:日本のクライミングそのものも変遷していきましたよね?
●篠原:登山にしても日本中が今までのアルパイン思考、大きな山、より高い山に行くという志向から、大きさは問題ではなくて、内容やスタイルが重要だという考え方に変わって行きました。79年の秋に出た雑誌『岩と雪(山と渓谷社、1958〜1995刊行)』72号のインパクトが大きかった。ジョン・バーガーがヨセミテのミッドナイトライトニングのボルダリングをやっているのが掲載されていたんです。当時ルートでいうと13+程度になるのではないかといわれていました。それを軽く登っている写真に戸田直樹さんがコメントをつけていました。「フリークライミングは考え方が重要である」と。それは日本のクライミング界に衝撃を与えたんです。
79年から80年の時は、「そもそもフリーとはなんぞや?」というフリーの定義すら認識がなかった。だからその後、2〜3年でものすごく進化していった。84年には池田功さんが、小川山で「スーパーイムジン」を開いています。当時12cといわれていた。また、80年代の前半から大会もスピードから競技性を増して、質とグレードを問うように変わっていきました。
小玉:山をやめてまで注力したクライミングだったのに、また山に戻ったのはなぜですか?
●篠原:93年の5月5日にフリークライミングに飽きたんです。
小玉:先ほどから篠原さんの記憶力の良さには驚かされていますが93年のしかも「5月5日」って!なぜまたその日なんですか?
●篠原:その時にピンと来たんです。というのは、その当時は冬はシーサイド(神奈川県城ヶ崎)、春秋は二子山(埼玉県秩父)、その後は鳳来岩(愛知県新城市)がクライミングエリアだった。
5月だから鳳来に通っていたんです。12のレッドポイントだったら比較的速く落とせていましたけれど、13になるとワンシーズンかかってしまう。体調万全で意気込んで行っても、壁が濡れていたり、そういうのが重なると意気消沈してしまって。
「なんかレッドポイントに疲れたな」「こんだけクライミングをやっているのに」って…。
小玉:それで、再びアルパインへ?
●篠原:その後、たまたまタイミング良く、小西浩文さんにK2に誘われたんです。「5年もやってないから無理じゃないの?」って言ったんですけど、「大丈夫だよすぐに戻るよ」と励まされた。
奥多摩で走ったり、トレイルランニングの耐久レースに出たり、フルマラソンに出たりしてトレーニングしました。
小玉:K2行に行かれてどうでしたか?
●篠原:高所体験の良い勉強になりました。K2(8,611 m)は、無酸素で4人でやりました。マッターホルン北壁やドリュ北壁は登っていたし、でかい壁は登っていたんですけど、高所って経験がなかったんです。だから高所を知るために別のメンバーとアコンカグア6,962 mに行きました。アコンカグアは易しい山ですが、高所の勉強になるんです。
K2自体は、でかくてすばらしい山なんですけど、易し過ぎてテクニカルな面で退屈なんです。高さと長さは凄まじいんですけど、一般ルートから行ってますから、フィックスロープがずっと貼ってあって、毎日荷あげと高度順応で、単調なんです。クライマーからみると退屈なんです。
なので、2年後に再びK2遠征をしようかとも思った時に、前から憧れていたトランゴタワーの方がいいなと思ったんです。6000mしかないですけど、世界最大の岩峰ですから、面白そうだなと。
*トランゴ・タワーズ(Trango Towers)は、カラコルム山脈、バルトロ氷河の北部にある花崗岩断崖群。世界有数の大岩崖をいくつか擁し、挑戦的なロッククライミングの場所としても有名。最も高いポイントは6,286mのグレート・トランゴ・タワー。東側に世界最大級の垂壁を有している。
小玉:高所登山が「つまんない」って思うということは、フリーは飽きたと言いながら、クライマーズスピリットは健全?!ということに他ならないですね…。
●篠原:同じことのくりかえしなので、フリークライミングのレッドポイントがいやになったということで、クライミング自体がいやになったわけではないんです。
ガイドが楽しい山行はお客さんも楽しい!
小玉:ガイドとして、クライミングなどバリエーションの魅力は?
●篠原:一般登山道を行く山行は安全性も高く、リスクは少ないですが、もともと山が好きでやっているので、自分が楽しいと思うバリエーションルートをガイドをすることが仕事にもつながれば幸運ですね。
海外でもモンブランやマッターホルンも何回も行くと新鮮味が薄くなるんです。自分もウキウキした気持ちで行けるところがいいですね。
何回も行っている山の方がガイドは完璧になります。初めて行く山のガイドはいろいろな意味で難しくはなります。ただし、その場合でも、きちんと熟考した上で行くので「初めて=危険」ではありません。となると、過去に登った山よりも初めての山の方が楽しい。
本来は、山小屋もなければ、道もなくて、最低限度の人の踏み跡があって、ケルンが積んであるというようなところを行くのが登山だと思うんです。整備されている所を行くのは、本来登山じゃないんです。冒険的なことを含む、ありとあらゆるものを試されるのが登山なんです。自分で考えないといけない。トラブルに対処できる技術と経験がなければならない。そうなってくると、一般ルートは、登山の範疇ではなくて、バリエーションからが登山といえるのかもしれません。
小玉:職業としてのガイドの魅力は?
●篠原:自然にガイドになった気がします。自分で決められて、考えられて、山に登ることが好きだから。その楽しさを教えてあげられること。一緒に行っててガイドが「つまんない顔」をしていたらお客さんに失礼ですよね。
小玉:お客様にはいろいろな方がいらっしゃるかと思いますが、その方々を導いていくのは難しくないですか?
●篠原:いきなり、大きなところに行くことはなくて、日本国内で少し登って、徐々に海外に行く。コミュニケーションをとりながら、易しいところから徐々により難しい山へお連れする。少数精鋭で登りますので、旅行会社のようなトラブルはないですね。
例えばある山行の参加を募集したとして、日ごろの会話などから推してお客様自身がまず自己判断して、そこを目指していらっしゃるので、とんでもないお客さんは来ない。難度の高い山行も日ごろのお客様の実力や装備や様々をを把握していますから問題が起きることは少ない。まあ、お互いに可能な山行かどうかなんとなくわかるものなんですよ。
遭難しないことを前提に、できるだけ要望に沿うように心がけています。それでも結果的に無理をすると、遭難騒ぎになる。敗退した時に騒ぎにさえならなければ「もうちょっと行けたのに」って思うかもしれないですけどね。
難しい山を落とすということは、100%安全ということはないから、見極めが難しい。自然相手ですからすべてが読めるわけではないのです。
ルート開拓者としての道、その魅力と醍醐味!
小玉:ルート開拓者として、最初のきっかけは?
●篠原:初登といえば、83年の夢のブライダルベールなんですよ。アイスクライミングですね。第3登までは、記録とし残ります。だから若いころは初登して、記録を出したいと思うじゃないですか?!そのきっかけとなった初登です。
その後、90年代には国内でのフリー化を試みました。池田功さんが初登したグリズリーに登れるかどうか試しに鈴木昇己さん(山岳ガイド。日本人初のエベレスト無酸素登頂)と登りに行ったんです。第5登だった。登れたので、横にあるダイレクトカンテをフリー化してみようという話しになって、91年にフリー化したんです。
また、そのころ話題になっていたのが、赤蜘蛛のフリー化でした。赤蜘蛛から池田功さんが登ったスーパークラックにかけてフリー化してみようと。クライマーとして、自分の力を試せるものをやってみたかったんです。
マルチピッチといえるものは日本には意外と少ないんですよ。マルチって複合的なものですから、2ピッチ以上あれば、マルチなんです。なので、北岳バットレスもマルチピッチなんです。ただ、北岳バットレスを「マルチピッチ」だという人はあまりいません。だいたいが、アプローチが楽で、自然条件が楽で、フリークライミングの要素が強いものを最近はマルチと呼びます。ですから、奥鐘山西壁はマルチという人はあまりいないということになります。
日本ではマルチが少ないので、そういうのを開拓できるといいのではないだろうかと、松原さん(松原 尚之:(社)日本山岳ガイド協会認定登攀ガイド、JAGU所属)と海金剛のスーパートリトンを開拓したのがきっかけで、太刀岡山、烏帽子岩の左稜線を開拓しました。そういうルートが少ないから、ガイドとして案内できる場所も少ないので、開拓が出来ると一石二鳥なんです(笑)
小玉:自分が開拓したルートにお客さまをつれていく心境は?
●篠原:せっかく開拓しても誰も登らないルートで、お客様を連れていっても「つまんない」と言われては甲斐がないですよね。再登者がたくさん出て、「面白いルート開拓したね」と評価されて、もちろんお客さんを連れていったら「面白かった」って言ってもらえたら嬉しいですよね。
小玉:烏帽子は、クラックもスラブもあり、長さもあって、いろいろな要素があって面白かったです。
●篠原:開拓できそうな岩場を見つけるのが大変なんです。松原さんは研究家だから、いろいろ見つけてくるんです。烏帽子岩の左稜線は、75〜6年に何回かに分けて開拓されているんですけど、今とはラインのとりかたが違うんです。当時はボルト主体で開拓されました。今はボルトに頼らずナチュラルプロテクション主体のルートをつなげました。
開拓しに行ったはいいけれども、ルートにならないようなとんでもない岩場で、すごすご帰ってきたこともあります。開拓をしている人はよく探しています。だいたいがダメなことが多いですけど、探すのも楽しいですね。
小玉:もっとも最近の開拓ルートは?
●篠原:金峰山鷹見岩サミットリッジです。鷹見岩に「あ〜恐ろしかった」ルートというのがあるんです。それに登りに行ったら、とても登れる感じではありませんでした。山頂から懸垂下降で降りていいくと、素晴らしい稜線が続いているので地図と照らし合わせて、再度挑戦して開拓にかかりました。
ガイドの仕事の合間合間の作業だったので、取りかかってから完了するまで4年とちょっとかかりました。なかなか良いルートですよ。
*鷹見岩:山梨県北杜市、金峰山への分岐を登山地図表記が破線になっている道を行く。
小玉:まだ、お客さんは連れて行ってないですよね?
●篠原:募集はしたけれど、応募するお客さんがいないので。
小玉:行きたいですけど、標高差200mはともかく、30mクラックは聞いただけで無理かなって。
●篠原:松原さんはお客さんを連れて行ったって言ってましたよ。鈴木昇己さんもデータ送ったら、お客さんを連れて行って、なんとかオンサイトして、「これは素晴らしいルートだ」「5ピッチ目は全身が震えました」と「三ツ星」をいただきました。
小玉:篠原チームでも行かないといけないですね。30mクラックはできるかな?
●篠原:そんなに難しくないですよ。きれいなクラックです。
小玉:グレードって?
●篠原:たぶん、クラック部分で10aくらいですかね。
小玉:いや〜ダメです。カサブランカ(小川山の代表的クラックルート)みたいなもんでしょ?
●篠原:あれより易しいと思います。長いから荷物しょってマルチ登るじゃないですか、そこがポイントです。
小玉:それでは最後に、AAAのお話を聞かせてください。
●篠原:優秀なガイドは、一流のクライマーでなければならない。けれども、一流のクライマーが優秀なガイドとは限らない。ホスピタリティーが大切です。例えばガイド試験の点が良いから、ガイドとして優秀とは限らない…。
山をかなりやっているってことが前提になります。最近の傾向は試験には強いけれど、登山歴があまりない。登山歴が足りないから、補うためにヨーロッパに登りに行く人もいたりする。昔ではありえない。ガイドになるために山に登るのではなく、本来は自分の登山をある程度やってから、ガイドでいくべきで、ガイドはある程度歳をとっていてもしかたないと思います。今はひっくりかえっている傾向にあります。
仮に25歳でガイドということになると、キャリアをいつ積んだのか?と問われますよね。体力が最もある30歳くらいから40歳くらいまでせいぜい自分の登山をやって経験を積んで、クライマーとして山の力をつけて、それでガイドのたしなみを以てガイドになるべきだと思います。
もうひとつは来てくれた人の安全を前提に楽しんいただくことが大切です。確かにクライマーとしての腕は良いけど、行ったら不愉快な目にあって、腹が立たっていうのじゃね。やっぱり、言うべきことは言うし、注意もするけど、「山に来てよかった」「また行ってみよう」と思えて、「楽しかったから山が好きになった」というふうでないとよくないですよね。
小玉:隔月ぐらいで四谷の登山用品店「デナリ」の上階で机上講習会を開催していらっしゃるのもAAAの一環でなんですね。
●篠原:そうですね。現場では教えるのが難しいことを知識として習得してもらい、実際の山行で生かしてもらう。より山を楽しむためにはスキルも必要で、実践で感じて覚えるだけでなく時として、机上で確認された知識も有効だと思います。
デナリに来る方の中には山歩きはするけれど雪山は経験がないとか、クライミングもやってみたいとか、高山はどうだろう、という方もいらっしゃいます。一人でも多くの方に山の楽しみを知ってもらいたいし、雪山やクライミングの魅力にも触れていただきたいと思っています。
小玉:私は60歳手前から山をやるようになって、人生が豊かになったと思っています。人生を山というものに託しているガイドさんとのご縁があったればこそ、それが楽しめている。とても素晴らしいお仕事だなと思います。
本日は楽しく貴重なお話し、ありがとうございました。
*最新開拓マルチピッチルート「鷹見岩サミットリッジ」の詳しい情報は雑誌「ROCK&SNOW」山と溪谷社に掲載予定です。
【プロフィール】
篠原達郎
●国際山岳ガイド連盟認定 国際山岳ガイド
●公益社団法人日本山岳ガイド協会公認 国際山岳ガイド
●ジャパン・アルパイン・ガイド組合所属(JAGU:通称ジャグ)
●モンチュラ・ブランドアドバイザー
●環境省公認 自然公園指導員
【主な山歴/登攀歴】
≪国内≫1983年夢のブライダルベール初登、1990年谷川岳・衝立岩グリズリー、1991年谷川岳・衝立岩コンドル(ダイレクトカンテのフリー化)初登、1991年甲斐駒・スーパー赤蜘蛛初登、1997年十一面カネコロンの他、フリークライミング、マルチルート多数開拓、初登多数
≪海外≫
ビックウォール:ヨセミテ、エルキャピタン・ノーズ、ハーフドーム北西壁/カナダ、ロータス・フラワータワー/ドロミテ・マルモラーダ南壁、チマグランテ北壁、チマオベスト北壁/カラコルム・トランゴタワー/パタゴニア・フィツロイ
アルパイン系の壁:マッターホルン北壁、ドリュ北壁、アイガー北壁
アイスクライミング:カナダポーラーサーカス、韓国トワンソン氷瀑
高所登山:アコンカグア、アマダブラム、K2遠征
ガイド歴20年。年間200日以上は入山。四季を通し、国内外の山域をアルパインクライミング、バリエーションルート、フリークライミング、アイスクライミングなど多岐にわたり、トリプルAの実践をモットーにガイド活動をしている。 HomePage/サミット登山学校 http://homepage1.nifty.com/summit/ |