これは年代によって読後感が大きく違うだろう。どの世代にとっても、「ずっしり」な「作品」であることに異論はないはずなんだが。
東大闘争から12年目という設定。「映像」とは闘争を外側から撮りメディアを通して公開されたものではなく、内側から記録した「映像」を指す。
「果たしてそのような映像が本当に記録されたのか。だとすればどこに隠され、それがどのようにして誰によって再び現場から持ち出されたのか。それは可能だったのか」を巡って波乱が起きる…。
フィクションとはいえ、考えればいかにもあり得るストーリーを、よくもまあ、次から次へと考えるものだと、ほとほと感心する。
一体全体、まさしくその渦中にあった群像にとって作品はどのような感慨を呼び起こすのだろう。渦の外側から眺めていた大半の同世代の胸に何を喚起するだろう。
団塊の世代の終わりがけ、しっぽの先の世代にとっては、あたかも芝居が終わって人が去り、饗宴?凶宴?狂宴?の後の残骸をやや覚めた目で見渡していた、その「饗宴」の意味を初めて知る思いをするのだろうか。
しばしば「大人?」たちは「今の若いもんは!」と言う。その「若いもん」もやがて「大人」になると、どういうわけか同じ台詞を吐くようになる。
しかし、時代を俯瞰して見ようとする時、その是非はともかく、「若いもん」と「若いもん」が明らかに違うと思ってしまうのは、やはり「大人」の感慨なのだろうか。
剥ぎ取られた敷石に足をとられ捻挫した足首で受験した世代にとっては、近しい話しのはずが、最も解釈の困難な、あるいは物言いの歯切れが悪くなる歴史の1ページを書いてある種成功していることは、読後の説明のつきがたい胸のモヤモヤからして納得せざるを得ないところではある。
作者名:箒木 蓬生
ジャンル:小説
出版:新潮文庫