タイトルからして「いかにも」である。安心して読み始められるがいい。箒木蓬生フィールドに寄せる期待を決して裏切らない。
どこで何が行われようとしているのか、物語の行く末がかなり早い時期に見えてくるのことはさほど気はならない。安心して注意力をほかに払うことができようというものだ。著者独自の「医・科学」もののスリル&サスペンスに加えてクレゾールの臭気とは別の香りを楽しめる。
例えば情景描写。怪しいばかりに美しい桜の老樹が池の水面に枝を垂れている様子。草花や自然に向けられた視線描写はスリル&サスペンスの添え物としてではなく、細やかさ故にストーリーにムードを着せかけている。
もちろん読み終えて胸に残るのは、驚くべき舞台設定や物語の展開を通して伝わる「人」の心の危うさに違いない。「医」の倫理は決して単に医療者の側にだけ要求されるものではない。受療者も潜在受療者もまた人として生命の倫理を構築しなければならないだろう。
両者の思い・目論見がバランスを崩し、あるいはズレが増幅したら、物語は必ず現実の事件となり得る。虚実が実に背合わせであることを感じて、ゾワッとさせてくれる。著者作品に触れる醍醐味だ。
片道1時間ほど、往復2時間の電車通勤しているとして、乗り込んだ次の駅か二つ、三つ先の駅で必ず降りる乗客のリストを胸中で確保していて、連続でちゃんと当該者の前のつり革にたどり着けたとしたら、3日もあれば読了だろう。
たとえ普段は「座れば寝る」を信条にしていても、居眠りを忘れて読み進めれば、電車がどこをどう走ったのか覚えもなく、あれよという間に到着となること請け合い。
作者名:箒木 蓬生
ジャンル:小説
出版:新潮社文庫