下町の浅草がまさに、サンバの熱狂に揺れ動いた1日であった。
日中は32度という真夏日の中、浅草の夏の風物詩でもある「サンバカーニバル」が行なわれた。広報部から報道の許可を取って、まず事務所へ向かう。ゼッケンと公式案内書をもらってからカメラを構えて、雷門のほうへ行くつもりが、人の多さに遅々と進まない。
なんと50万人が来ているというから、歩けないのも不思議はない。なんとかゴール近くに場所を見つけたはいいけれど、前にも横にも人が多すぎて、大きな音はするものの、とうとう姿はよく見えないという悲劇であった。三軒茶屋のサンバでは1列目を余裕でゲットしていたが……ここはもう、半ば諦めの境地。
↑↑ サンバの熱狂が伝わってくる ↑↑ ところで、なぜ浅草にサンバ?
大正から昭和にかけて、浅草は“大衆娯楽の都”としてにぎわったという。東京で初めてできた地下鉄も、銀座線の浅草―上野間であった。
報道にはこのゼッケンが支給されます
戦後、東京の規模が拡大するにつれて、渋谷や新宿のほうに人気が移ってしまったが、昭和40年代、浅草に新しいイメージを創り出して、集客しようという考えからサンバが取り入れられたのだ。戦前から海外渡航の経験があった、喜劇俳優の伴淳三郎氏(1908?1981)のアドバイスに従い、ブラジル視察団を派遣するなどして昭和56年から「浅草サンバカーニバル」が始まったのだった。
パレードは午後1時半から6時まで続く。浅草でしか見ることのできない豪華絢爛の“アレゴリア”(山車)が規模の大きさを物語っている。今回はアサヒビールが特別協賛していたので、とても派手な山車が出ていて、ビール党ではない私も大いに楽しんだ。
さて肝心のサンバは、地域のブラスバンドなどによる“コミュニケーションリーグ”と、企業チームの“テーマ・サンバ・リーグ”、さらに“S1リーグ・S2リーグ”と分かれている。S1と2の各リーグはダンスと演奏を競うというもので、各チームがテーマを持って、それぞれ踊りと音楽で表現してくれる。
ちなみに三茶で見たばかりの横浜生まれ、エスコーラ・ヂ・サンバ・サウーデはコンテストの結果4位だったので、嬉しく思った。先日1列目でかぶりついて見たので親しみがわいていた。
「食通街」とはさすが浅草
家庭的ハンバーグですっかり元気回復!
休憩を取ろうと思い、食べ物屋はないかと探しても屋台は出ていないらしい。まあ、お腹が減ったら仲見世に行けば食べ物屋はたくさんある。私も休憩のつもりで、喫茶レストランでハンバーグランチとコーヒーで水分も元気も補給。とても美味しいランチを食べてご機嫌だった。来年はもっと早く来て1列目の場所取りをしよう! そう誓ったのだった。