2000年11月から2001年12月に小説新新潮掲載の5編を掲載順に編んだ短編集。
まず「鶴」
男も顔負けの凛々しい太鼓を打つ夏の申し子とホタルの化身の出会いと別れ。
ホタルは悲しみに自らの身を焼き尽くすように一夏の命をすり減らし、この世から消えてなくなる。
消そうとして消せない火を胸に点してしまった主人公は、かつてのように太鼓を打てなくなる・・・。
そのような解釈もある。
「七夕」
「男と女の間には深くて暗い川がある」を納得する。物差が違う。物差しの次元が違う。測り方の次元が違う。
だがしかし、あくまでもさらりと「川」を描いてみせる。
「花伽藍」
伽藍とは寺院などの大きな建物のこと。花伽藍は桜の樹の幾本も並び、あるいは対し、枝を張り、絡ませて咲き乱れる様をいう。
どうしようもないダメ男のもと亭主、それでもどこか憎めない。あとでややこしいことに巻き込まれるのを覚悟で温かい気持ちを投げかける。
なぜか懐かしさを覚えるもと亭主の姉。痴呆の始まった義父。三人で花見に出かけるクライマックス。降りしきる雪の中にいるのかとも思しき花伽藍に抱かれて三人はただ立ち尽くす。
人と人の関わりの妙、年降る悲しみ、さまざまな思いは花伽藍に祈りとなって響くようなラストだ。
「偽アマント」
人を分別する一つの方法に「Cat People・猫好き」かはたまた「Dog Person・犬好き」かというのがある。
猫というのは自分から擦り寄りはするが、抱き上げられたりするのは好かない。こちらがこしらえてやった「居場所」は、鼻もひっかけないで好きなところに陣取る。呼んだって、気がついて耳だけちびっと動いてるくせに、知らん顔を決め込んで丸まっている。そのくせやたらに嫉妬深い。
一匹の猫・アマントの習性をなぞった愛情のやりとり・すれ違いは、もちろん「Cat People・猫好き」でないと描けないとみた。
アマントにはチルシスでなくてはならない。中也のモチーフの使いこなしもなかなかいけてる。
「燦雨」
さまざまなものを捨てて愛し合った老女が仲良く手をつないで昇天するラスト。つがいの鳥が燦雨に浄められて天に飛び立つその情景をあたかも眼前のごと読者に広げて見せるために、これは丹念に織り上げられた錦だ。緻密に考え抜かれた、自体は目立たない縦糸と横糸の1本1本は実はきちんと役割を果たしている。織り重なるに連れ錦模様が現れる工程をご覧うじあれ。
おおよそ短編集はこれで読むのにこつのようなものを必要とし、ひとつ読み終えてから次に感情移入するまでの違和感を自己処理しなければならないのだが、気がつけば一気に5編を読み上げている。
中山作品を読み重ねてきて、「ビアン」だの「ノン気」だの専門用語?にも親しみ?すっかり過激な描きっぷりにも慣れたためばかりではない。明らかにそのcharacteristic world そのものが「仕立て」として使いこなされ、突き抜けて描き切られた「人の狭間のさまざま」が染み入るように胸を打つ。
2002年の直木賞にノミネートもうなづける。
7月17日?の発表が楽しみである。
作者名:中山 可穂
ジャンル:小説
出版:新潮社