武の湯 –勝利のビール–

自宅から歩いて3分の所に、『武の湯』という銭湯がある。『武の湯』は下町の小さな銭湯であるが、いつもこぎれいにしていて気持ちがいい。肝心の湯の方も、熱い湯が粋とされるこの町の銭湯にあって割合温めに設定されているので、猫舌ならぬ猫体の私にとってはひどく塩梅がいいのだ。そんなこともあって、この町に越してきてからはもっぱら『武の湯』を定湯としている。




夕暮れ時の心地良い風に吹かれながら、タオル片手にサンダル履きで路地裏を行く。
目の前を横切る野良猫を見送ってポツポツ歩いて行くと、やがてふわりと柔らかな石鹸の香りが鼻先をかすめる。履物を入れるのは“1番”の下足箱と決めているので、そこに先客の履物が入っていると思わずむっとする。正直つらい。

テレビを見ている番台のおばちゃんに小銭を渡し、はらりと暖簾を分けて男湯に踏み入る。目の前に広がる脱衣場には小さな音で演歌が流されていて、鏡台の脇には季節の花などが活けてある。
私は不敵な笑みを浮かべながら素早くTシャツを脱ぎ捨て、そのまま流れるような動作でズボンとパンツを瞬時に下ろす。
どうだ全裸だぞ……。誰にともなくそう呟き、舞台に登場する役者のような気分で湯煙に曇ったガラス戸を開ける。

私はたまに無茶をする男だが、ルールは守る男だ。
湯に浸る前にはきちんと体を洗い流し、股間あたりをきっちりと指差し確認してから、なみなみと注がれた聖なる湯に歩み寄る。程よい大きさの浴槽内には、何やらキュウリを連想させる常連の爺さんが、湯から首だけ出した格好でうーうーと唸っている。

決してタオルを湯に浸けたりなんかしない。それは銭湯民族の間ではタブーとされる行為だからだ。私は浴槽の湯にゆっくりと体を沈め、静かに目を瞑ってキュウリ爺さんと同じようにうーうーと唸ってみる。そして、今日一日の出来事なんかを回想し、よし、と小さな声で呟く。

「肩まで浸かって百まで数えろ」
それが、銭湯民族であった私の祖父の口癖だった。
まだ子供だった私は、そんな祖父の言いつけに顔を真っ赤にして百まで数えたものだ。
百を数え終えて湯から上がり、黄色い桶にカランの湯を勢いよく注ぐ。
そして、アゴに伸びた無精ひげをザラリと撫で、桶の湯を頭から思い切りよくかぶる。この時、自分の周りに人がいないことを確認しておかなければいけない。あやまって桶の湯を他人に浴びせてしまったら、それこそ戦闘になりかねないからだ。

銭湯は一触即発の戦闘の場でもある。
にもかかわらず、一糸纏わぬ男たちが無防備極まりない体勢で弱点をさらけ出している状況というのは、どうにもマズイではないか。
銭湯民族たる者、まずは大人のルールを身につけなければいけない。
そして、風呂上がりには「一触即発の戦場」をくぐりぬけ得た勝利のビールをノドに流し込むこと。それもまた、銭湯民族のルールである。