そのときまで、わたしにそんな瞬間が訪れようとは思ってもいなかった。恋を夢見るような年頃はとっくの昔に過ぎ去っていた。それまでのわたしには何もなく、それからのわたしにもずっと何もないままのような気がしていた。だったら、ちょっと海外へでも出てみるか。そう思って、イギリスはウェールズにある大学の英語研修のサマースクールに参加したのだった。
英語は得意でも、特に好きでもなかった。案の定、クラスでは落ちこぼれて、へこんでいたら、日本の大学からグループで来ている女の子たちが英語の練習相手のハントに行こうと誘ってくれた。怖いもの知らずの彼女たちの勢いに便乗して英会話の練習台漁りをしているうちに、学生寮の共同キッチンに迷い込んでいた。
と、突然……。
そこにたむろしていた学生のひとりが声をかけてきた。日に焼けた顔にかかるライトブラウンの髪が襟足を隠している。色あせたTシャツに短パン。短パンの下から長い脚がまっすぐにニョキニョキと生えていた。わたしたちが探していたクラスメートは、街に出かけて留守だよと教えてくれた。その人懐っこい青い目が笑うと、なんとも優しい笑いじわが目じりにくっきりと刻まれるのだった。
それが、わたしとその庭師(といっても、それは夏休みの間のアルバイトで、夏休みが終わると大学生に戻るのだが)との出会いだった。スコットランド人で英語のネイティブである庭師は、たむろしていた学生たちといっしょにわたしたちの英会話の練習相手になってくれた。庭師の片耳には、金色のピアスのリングがぶらさがっていた。小さいながら、その金色のリングは人目を引いた。庭師は言った。
「大学に入るまで12年間兵士をしていたんだ。軍隊でピアスをつけることは許されない。だから、このピアスのリングは、自分はもう生涯兵士にもどることはないという証なんだ」
この人は、いったいどんな人なんだろうと思った。どんな人生を歩いてきたんだろう。どうも気になって仕方がなかった。
決定的な瞬間は、それから数日後にやってきた。
ぬけるような青空がどこまでも広がる美しい昼下がりだった。わたしは友だちになった女子大生たちと緑の芝生の広がるキャンパス沿いの道を街へ急いでいた。銀行が閉まるまでに、彼女たちのトラベラーズチェックを現金に替えるためだった。
そこへ、突然……。
「ヘイ、ガールズ!」
野太い声が、背後の緑の土手の上からふってきた。驚いてふり向くと、身の丈ほどもある草刈がまを地面につき立て、庭師がわたしたちに向かって片手をさしあげている。その一瞬、あまりのまばゆさに世界がくらっと揺らいだ。さんさんと輝く太陽、青く澄みわたる大空を背景にすっくと立つ庭師の姿。汗ばんで火照る顔にすがすがしい笑みがうかんでいる。とてつもなく魅力的な笑いじわを目じりに深くたたみ込んだ青い目が無心にほほ笑みかけてくる。
いったいなんなの。なんなのよ、これは……。
心の叫びとは裏腹に、そのとき、わたしははっきりと感じていたのだった。恋に落ちる瞬間というものが、たしかに、この世には存在するのだということを……。
その一瞬のことは、それから20年近くたった今でも忘れることがない。ライトブラウンの髪がシルバークレーに変わり、筋肉質の体躯は脂肪の胴巻きにおおわれてしまったけれど、毎日仕事から帰ってくると、「ただいまぁ?」とわたしに向かって声をかける、かつての庭師の目じりにうかぶ笑いじわだけは、今も、昔そのままなのだから。