vol.16 nobu(横山信夫)

【nobuさんに7つの質問】

Q1:お酒との出会いは?
小さい頃から両親が花屋をやっていて、自分もサラリーマンではなく、商売をやってお店を持つと、決めていました。だから、大学進学などは考えず、学校を出たらすぐに料理の道に進みました。学生時代からレストランで働いており、当然お酒も出していました。未成年だったので、それまでまったくお酒にふれる機会がなかったのですが、お酒っていうのは何種類もあって面白いなと感じました。最初は軽い感じで、カクテルの作り方を正式に学んでみたいと思い、バーテンダーの学校に入ったんです。19歳の頃です。


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Q2:バーテンダーにはどうやって?
バーテンダースクールで学んでいるうちに、お酒の奥深さがわかってきました。バーテンダーの仕事を学んだときに、自分はこれがやりたい、という意志を持つようになりました。やがてスクールが終わり、職場を斡旋してもらおうと思ったらNBA(日本バーテンダー協会)に入ることを薦められました。
大井町の「バラード」というショットバーを訪ねたところ、1週間も経たないうちに、竹芝のシティホテルのバーテンダーに空きが出ると言われました。スタッフが総入れ替えのタイミングというということでしたが、いきなりでびっくりしました。
そのホテルに行ってみると、チーフバーテンダーだけが経験者で、僕を含めた2人が未経験者という状況でした。それまでの生活とのギャップにも驚きました。金髪のアフロだったのに、髪を短くして、色はもちろん黒。レストランの頃は服装は自由だったのに、いきなりスーツ出勤です。

Q3:バーテンダーになってどうでした?
そのころ19歳だったので、20歳になるまではバーテンダーの本業はないよと言われていました。でも、いきなり当日からカクテルのオーダーが入ってきました。最初の3日間は、バーに来たお客さんには相当レベルの低いことをやってしまったと思います。また、3日経つ頃にわかったのですが、経験者というチーフバーテンダーがカクテルをほとんど知らなかったんです。例えば、ロングアイランドアイスティと言われて、チーフに聞いたら、アイスティーがないから断ってくれと。今思うと恥ずかしいですね。
(注:ロングランドアイスティーというカクテルにはアイスティーは使わない)

さんざん、同じフロアのマネージャーやレストランのチーフに怒られました。仕事が遅いとか、オーダーと違うものが出てきたとか。普段怒られてはならない理由で怒られたんです。会社の采配がおかしいと言っても始まらないので、やるしかない。当時、バーテンダーは下積みで2~3年が当たり前という時代に、いきなりカウンターに立てるのはチャンスだと思いました。

プライドが高いので、怒られるのは耐えられない性格です。それ以上の結果を出して見返してやろうと決心。1ヶ月で結果を出しました。今まで怒られた人にも、「よくこの短期間に成長した」と言われました。ものすごい忙しい店だったのですが、すべてこなせるようになりました。オーダーを作って出す作業はレストランの頃から慣れていたことも理由です。

その間に、同僚は辞め、チーフは解雇になりました。その後に来た新しくチーフとの出会いが、僕にとって大きな存在になりました。ホテルから来た方だったのですが、接客のプロフェッショナルなうえ、技術的にも独自の追求をして完成されていた感じでした。
後輩を育てる力もありました。バーテンダー歴1ヶ月の僕に対して、出勤前に待ち合わせして、カフェでいろいろ教えてくれたりしました。バーテンダーを目指す人のバイブル的「バーテンダーズマニュアル」な本や道具をいろいろとくれたんです。その本には彼が若いときにラインを引いたところがあり、そこを中心に勉強しました。そんな感じで最初の4ヶ月間に、他の人ができないくらいの経験を積みました。半年後には、バーテンダー歴半年というレベルをとうに超えていたと思います。会社には、僕がいないと回らないよと言って、昇給してもらいました。


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Q4:その後のキャリアは?
21歳の時に「ジュニア・カクテル・コンペティション」に出てみなさいとNBAの支部長に言われました。創作カクテルオンリーの大会で「プティフール」というカクテルを作りました。小さなお菓子という意味なんですが、これがひどいできでして、大会もさんざんな結果でした。お酒の相性の知識と経験が足りませんでしたね。翌年にもコンクールに出て、その時は銀賞を取りました。

僕が23歳になったとき、お世話になったチーフバーテンダーが辞めて、僕がその肩書きを引き継ぐことになりました。当時は今ほど甘い業界ではなかったので、なかなかないことだったと思います。西洋料理接遇の資格を取り、NBA京浜支部の広報部長にもなり、少し天狗になっていました。会社に6度目の昇給をねだったら、断られました。

じゃぁ、広い世界に出て経験を積みたいと思って、オークションハウスのレストラン部門に就職しまして、会社が持っているイタリアンレストランのソムリエ兼バーテンダーとして就職しました。お客様がオークションで競り落とした年代物のワインをレストランに持ち込んでいいシステムだったので、普段お目にかかれないようなワインをサーブする機会に恵まれたのはよかったですね。羽振りのいい方が多いので、競り落としたワインのケースの中から「1本みんなで飲んで」とくれるので貴重な経験になりました。

その次は、川崎のダイニングバーに店長として就職しました。個人経営の店で、バーカウンターにいながら、フロアから調理場までみました。結果が出たので、昇給をねだったら無理だったので、そこも辞めました。


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Q5:独立のいきさつは?
次に、大森の老舗「スワンク」の雇われマスターになりました。スコッチモルトがメインのバーでした。当時、モルトが注目を浴び始めた頃で、最善の勉強場であると感じ、二つ返事で受けました。モルトの勉強がたくさんでき、自分でお店を出す予備練習としては最高の場でした。オフの時でも、自分がバーテンダーだということを意識するようになったのもこのころです。

1年半ほど過ぎ、銀座で知り合いがやっていたお店が、ビルが1年後に建て替えになるので移転しました。それで、今の店をそのまま残していくので、1年間やってみないかと声がかかったのです。銀座では物件の保証金だけでも1000万を超えるのに、什器備品とお酒でたったの70万円でオープンしました。ここでは、店をオープンするという経験をさせてもらいました。

銀座を引き上げたのが27歳の2月で、その前から地元で物件を探していました。
6月に荏原町でショットバーをオープンしました。名前は「リベロ」。母親が子供の名前を決めるかのように、10個くらい候補を作ってくれたんです。その中から、選んだのがリベロでした。スペイン語で「自由」という意味です。この頃、NBAの京浜支部副支部長になりました

オープンの日は地元でしたので、盛大にやりました。スワンクの頃からのお客様も来ていただけました。僕の誇りは、これだけ店を移り変わっていても、ホテル時代からのお客様に来ていただいていることです。10名程度しか入らない小さな店でしたが、立ち上げから順風満帆にいきました。

4年後、もっと広いスペースに出たいなと思いました。もともと目標は、ビジネス街に2〜30名は入るような店を作ることでした。運良く五反田に物件が出てきて即決でした。駅からはわかりにくい場所ですけど、懇意にしてくれるお客さんもたくさんいたので何の不安もなく、2006年に移転しました。31歳6月のことです。


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Q6:トラブルやつらかったことは?
トラブルはないに等しいです。あえて言うなら、銀座でやっている頃、裏口が火事になって、足ふきマットをもって消しにいったくらいでしょうか。

トラブルというわけでもないのですが、荏原町の時に、1杯だけいいですかと入ってきたお客様がいました。当たり障りのない会話をしていたら「実は今日死のうと思ってさ迷っていて、明かりが見えたので入ってきた」と言うんです。これは、バーテンダーとして生きる希望を与えてみせると決意しました。最後には「マスターありがとう。明日からもう一度がんばってみるよ」と言ってくれました。ただ、僕が「今日は家に帰って、熱いお風呂に入ってお休みになってください」と最後に言ったら「帰る家があったらそうしたいね」と。しまった!と冷や汗が吹き出しましたが、数ヶ月後、店に来て元気な姿を見せてくれた時は心底、うれしかったですね。

つらかったことはないですね。本当に接客をしているのが楽しいんです。お客さんが酔って寝るとか、病気で発作を起こすとか、滅多にないですが飲み逃げとかは、僕の中ではトラブルではありません。

Q7:今後の予定や展望は?
お店の宣伝のためにmixiを始めたのですが、次第に趣味の活動もするようになりました。僕がひげを生やしていることもあり、ひげのコミュニティを立ち上げました。それが盛り上がって、ひげ男性だけを集めた写真集を発行したこともあります。そのメンバーが男女ともにたくさん来てくれるようになりました。

最近は欲張りになってきまして、次は事業家になりたいなと思っています。レストランであったり居酒屋であったり、時代にあった飲食店を数軒構えたいです。また、自分が学んできたことを伝えられる人間とともに、事業展開したいですね。自分と同じように開業したいという人に対して知識をあげたい。

バーテンダーとして1番になりたいとか言う気持ちはまったくありません。接客が大好きなので、自分の店に来て笑顔になってくるお客様を無限に増やしたい。ゆくゆくは、せっかくできた大きなひげの輪で、ひげダイニングバーを作りたいと思っています。

 

取材を終えて—


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さすがホテルを経験しているだけあり、物腰は優しく、言葉遣いも丁寧。しかし、言動の節々にワイルドさがにじみ出ており、多人数のコミュニティを引っ張るカリスマの片鱗を見た。nobuさんの経営する「リベロ」で飲んでいると、ファンの女性が次から次と来店する。男性からみても「いい男」なイケメンぶりも魅力。バイタリティに溢れる猪突猛進型のnobuさんには、どこまでも高みへ登っていっていただきたい。

*ひげ写真集の購入はこちら

*mixi:SNS(social networking site)異業種間の交流やコラボレーションが可能な「場」の提供を第一義とするコミニュケーション・ウェブサイト
 

【プロフィール】

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ショットバー・リベロのオーナーバーテンダー

●ショットバー リベロ
東京都品川区東五反田1-18-6第二ベネテックビル3F
TEL/FAX:03-6694-5853
営業時間:18:00〜26:00(年中無休)
<アクセス> JR五反田駅東口を出て、徒歩5分

サイト名
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