天才が暮らした街の”富嶽百景”


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誰しも「知り合いの知り合い」をたどっていくと、6人目でほぼ世界中の人とつながるという「6次の隔たり」説。まあ、そこまでアカデミックな話ではなくとも、思わぬところで驚くような人やモノとのつながりに気づかされることってありますよね。

東京を東西に貫くJR中央線。かつてのトレードマークだった全身オレンジ色の車体こそ今は見ることはできませんが、その沿線には古きよきたたずまいを残した場所がいくつも残っています。そんなスポットのひとつが、住みたい街ナンバーワンに輝く吉祥寺の隣駅、三鷹にも。今回は、JR三鷹駅からほど近い所に架けられたある古い陸橋が意外な人とシンクロしていた、というお話です。


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丈夫なつくりが歴史を感じさせる三鷹陸橋。
三鷹駅南口から歩いて5分くらいでしょうか

「三鷹陸橋」と呼ばれ地元の人から親しまれているこの橋、1929(昭和4)年に架けらた当時のままの姿で、今日も東京へ向かう上りの、そして山梨や長野をめざす下りの中央線を見送っています。
そして、じつはこの場所も都内有数の富士山ビューポイントのひとつ。よく晴れた日にはこの橋の上から南西の方角に富士山を見ることができるんです。

ムコ殿も、きっかり43段ある階段を上ってこの橋の上に立ってみました。ところどころ錆びた鉄柱と、向こう岸まで50mはありそうな長く丈夫なコンクリートの通路。犬を連れて散歩をする地元の人や、真下を行き交う中央線に手を振る親子連れと何度もすれ違いました。


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陸橋の上から手を振る親子連れに答えるように、眼下を走る中央線がプーと警笛を。
「こちらに気づくと鳴らしてくれる運転士さんもいるんですよ」ですって。
ちびっ子もうれしそうでした

そしてそして、今から70年ほど前にこの陸橋から富士山を眺めたのが、津島修二氏。はい、波乱の人生を送った天才作家、太宰治の本名ですね。
1939(昭和14)年に三鷹に居を構えた太宰は、およそ9年間、ちょうど39歳の誕生日に溺死体で発見されるまでこの地に暮らし、『走れメロス』、『女生徒』、『津軽』、『人間失格』といった名作を世に送り出す傍ら、自宅を訪ねた友人たちをこの陸橋に案内したとか。


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階段の上り口にはこの陸橋で撮られた太宰の写真が。
本当にこの階段を上っていたんですね

ムコ殿が知っている限りでは、この陸橋そのものが彼の作品に登場したことはありません。それでも、ここから富士山の雄姿を眺めたのは間違いないでしょう。
太宰の命日、桜桃忌から数日後の梅雨の晴れ間を狙ったムコ殿でしたが、さすがに空には雲がかかり、残念ながら富士山の影すら見ることはできませんでした。それでも、太宰も上った階段を踏みしめるのはとっても貴重な体験でしたねぇ。

来るのは勝手だけど、富士なんてそう簡単に見せてやるものか――。寂しがりだけども気取り屋、そんな太宰ゆかりの場所らしいなと独りごちるムコ殿でした。
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いつもならこの方向に見える……はずの富士山。
短編『富嶽百景』で彼は、苦悩以外に誇るべき何も持ち合わせていない我が身を恥じ、
「富士はのつそり黙って立つてゐた。偉いなあ、と思つた」と嫉妬すら感じているように富士を称えます