地球に超接近してくる巨大惑星メランコリアの出現。それに伴って鬱状態に陥る主人公キルスティン・ダンスト(『スパイダーマン 』シリーズ)と彼女を取り巻く人間模様、そして世紀末の様相を、観客の心を突き刺す厭世的な作風で世界中に根強いファンを持つ鬼才ラース・フォン・トリアー監督が、荘厳なほど美しい映像で表した本作。
監督にとっては鬱病からの復帰第二弾となった本作だが、第一弾の『アンチクライスト』ではヤンデレ女の病的側面をこれまた病的な筆致で描いたショッキングな映像が物議を醸した。賛否両論だった前作の反省を踏まえてかはたまたその反動からか、本作の映像は非常に美しく、ストーリーに散りばめられている毒もかなりソフトだ。「立ち直れないほどのショック」を心のどこかで期待するある意味M気質を持つラースファンたちは、本作をどう受けとめるだろうか。
ジャスティン(キルスティン・ダンスト)は純白のウェディングドレスを身に纏い、夫とともに自らの結婚パーティーへと向かう。だが、彼女らの乗るリムジンは大きすぎ、細い山道を曲がることがなかなかできない。そんな状況すらも笑って楽しむ幸せ気分の彼女だったが、会場への到着は大幅に遅れてしまった。出迎えた姉のクレア(シャルロット・ゲンズブール)とその夫(キーファー・サザーランド)は苦言を呈するが……。
前作同様にスローモーションで描かれる、監督曰く「序章」は、終末を描いているにも関わらず美しく、圧巻だ。もっとも、これから起こることのすべてを結末も含めて表しているため、序章というよりは「目次」の表現の方が近いだろう。
惑星の接近により精神に異常を来たしてしまったという設定のジャスティンだが、これも前作同様にマトモだった頃の描写がまったくないので、その設定を知ってから観なければ母親の犠牲者であるアダルトチルドレンな痛い人だし、よしんば知って観たとしてもそうなっているのは彼女だけなので、惑星の影響というこの設定はスクリーンからは伝わってこない。観客はただただ不快感を彼女に抱くだけだ。
とはいえジャスティンの壊れ方はなかなか凄まじく、昨今では結果的に宣伝材料ともなっている監督の鬱経験が、画面に効果的に生かされているといえよう。
いわゆるハリウッドの終末ものと決定的に違うのは、本作では世界の終わりを「良きもの」としていること。「自分が幸せになることができない世界は悪。そんなものは滅んでしまえばいい。そうなれば他人の幸福は消え、自分の不幸も消え、結果的に自分は幸福になれる」という思想が、ジャスティンを通して現れる本作の根幹であり、ラースをラースたらしめている決定的要素だ。
また、本作では多くの科学者が「惑星は地球に衝突しない」とするが、水面下のネット情報では「衝突する」との説もある。科学者たちは実際にそうした計算結果をはじき出したのか、または人類を恐怖に陥れずに安らかな最期を迎えさせるために敢えてそう言っているのかは定かではない。
だがこれは大震災後にフクイチからの無主物に怯える国民と、テレビが主な情報源で「食べて応援」している国民とに分かれている今の日本の状況を想起せざるを得なくなってしまうシーンであり、なんとも複雑な気分になってしまう。
ラースとペネロペ・クルスとの手紙のやりとりに端を発して作られ始め、ラースは彼女を主演に想定して脚本を書いたにも関わらず、ペネロペは(噂によればハリウッド大作への出演のために)降板。また、ヒトラー擁護発言でのカンヌ追放が大々的なニュースとなって散々な目にあったラースだが、ペネロペの後釜で主役となったキルスティンがそのカンヌ国際映画祭で主演女優賞を受賞。
そしてヨーロッパ映画賞では、堂々の最優秀作品賞、撮影賞、美術賞の3部門を受賞した本作。映像もさることながら音響もなかなか素晴らしいので、劇場で気兼ねなく大音量に身を委ねることをお薦めする。
監督・脚本:ラース・フォン・トリアー
出演:キルスティン・ダンスト/シャルロット・ゲンズブール/アレクサンダー・スカースガード/キーファー・サザーランド
配給:ブロードメディア・スタジオ
公開:2月17日(金)、TOHOシネマズ渋谷、TOHOシネマズみゆき座ほか全国にて公開
公式HP:http://melancholia.jp/
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