神様

「くまにさそわれて散歩に出る。」
この最初の一行で、もうこの物語の世界にはまってしまった。反対に言うと、この最初の一行が気に入らなかったら、この世界にははまれなかったかもしれない。それぐらい独特の、ほっこりとした世界観で描かれた川上弘美の短編集。

冒頭のくまは、「熊さん」というあだ名のおじさんではなく、オスの成熟したくまで、とても大きい。主人公の「わたし」の部屋のみっつ隣の部屋に引越ししてきて、引越し蕎麦を同じ階の住人にふるまい、ハガキを10枚ずつ渡してまわる。くまに名前はなく、呼ぶときには「貴方」と漢字を思い浮かべて呼びかけてほしい、そうのたまう。

散歩に行った川原では思わずくまの野生がのぞき、ざぶざぶと川に入り、大きな魚を手づかみで捕まえるのだが、それでも、準備万端で、料理が得意なくまは、まな板を取り出し、小さな果物ナイフで魚をさばき、粗塩をかけて干物を作ってくれる。

タイトルの「神様」は、人間の神様ではなく、熊の神様のこと。くまが、「わたし」に向かって「熊の神様のお恵みがあなたの上にも降り注ぎますように」と言ってくれるのだ。なんともやさしいくまではないか。

そのほか、わたし(同一人物だと思うのだが、名前は出てこない)のまわりにはいろいろ不思議なことが起こる。壺の中から「チジョーノモツレでこうなっちゃったんですう」というコスミスミコ(なかなか美人)が出てきたり、「離さない」と、人魚に魅入られてしまったり、お友達のウテナさんと一緒に、河童にあちらの相談をされ、ほんとにはあ、と困ってみたり。そうかと思えば、神隠しとでもいうべき若き日の出来事を、近所で「猫屋」という飲み屋をやっているおばあさんのカナエさんに聞かされたり……と、どれもこれも童話のような不思議な話ばかり。

このひと、ことばの選び方がとてもとてもやわらかなのだ。たとえば、神隠しのおばあさんは、神隠しにあった先で男を好きになり、その男に抱きしめられ、くるくるとまるめられる。これ以上まるまらないぐらいまるめられる。まるめるってのはまあ、まるめるってことなんだろうけど、なんともすてきな表現じゃないですか。男と生まれたからには、たまには女のひとをこれ以上ないってぐらいまるめたいもんですはあ。

最初のおはなしに登場するくまは、最後にじぶんの生まれ故郷の北のほうへ帰る。そして、夏になったころ、とてもきちんとした手紙がくまから届く。それを読んで、なんだかとってもせつなくなるのは僕だけではないだろう。最後まで、とてもやさしいくまなのだ。

こころにささくれが出来てどうしようもないときに、とてもおすすめの本です。 図書館で借りてきたんだけど、借りてる間、五回も読んじゃった。 ささくれ出来すぎだよなあ、ほんとにまあ。

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作者名:川上 弘美
ジャンル:短編小説
出版:中公文庫

神様(中公文庫)