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<バランスが取れていないバランス>
最近感動した2つの文章
一つは腑のど真ん中に落ちてものすごい納得だった。"そうなのよー!" と。
もう一つは何度読んでも涙が出る。人の命の物語が含まれていると言うこともあるが、何となくもやもやとしていたものにはっきりとした光を当てられた様でした。
いづれも自分自身の在り方を問われる内容で、これが立て続けに私のところにきたのは興味深い。
以下、茂木健一郎さんのフェイスブックより
………………………………………………………………………………………………………………………………………………
"市場に合わせること、市場に逆らうこと"
「市場」というのはとても大切な存在で、自分を磨き、育てようと思ったら、過酷な市場の中に身を置くしかない。その中で切磋琢磨され、批判され、比べられて、それでもがんばることで、何かが育っていく。
もちろん、ニッチ(ひだまりのようなもの)を見つけることも大切だが、そこに隠れて嵐をやり過ごしているだけだと、自分の芯の中の何かが、磨かれずにだんだん曇っていってしまう。だから、市場の嵐に身を晒す覚悟は、いつもなければならない。
しかし、市場は一種類ではないことも事実である。いわゆる「メジャー」なものの背後にある感性が、自分の魂と相容れないこともある。それは、若いときにはしばしば起きる現象だ(いや、人生のベテランになっても同じなのだが、単に感性が摩耗して忘れてしまうだけかもしれない)。
だから、私たちは、二つの種類の勇気を持たなければならない。一つは、市場の嵐に身を晒して、その中で磨かれ、選択される勇気である。もう一つは、その時々の市場の横暴にかかわらず、自分の魂を貫く勇気である。
難しいのは、市場の中で戦う勇気と、自分の魂を貫く勇気が、往々にして両立しないことだ。難しそうで実は容易なのは、市場の圧力に負けて、自分の魂から離れたふるまいをすることである。結果としてその人は成功を得るかもしれないけれども、長い目で見ればその人のためにも、市場のためにもならぬ。
河合隼雄さんとお話したとき、「自分の中心を外さない」ことの大切さを聞いた。市場の厳しさに身を晒すことはどうしても必要だが、その際、「自分の中心を外さない」ことを続けられれば、その人は、自身にとっても、世の中にとっても、一つの福音となる。
別の見方をすれば、適応というものの二面性である。適応はすべきだが、適応し過ぎてもいけない。特に、市場に合わせることを適応と言うならば、みんなが適応することは、単に複写を多数生み出す結果になることも多い。
希望が持てるのは、爆発的にヒットするものは、必ず、鋭利なオリジナリティを秘めているということだ。市場に逆らうことが、結果として市場ではやされ、市場を拡大することにつながることもある。そこにこそ悪夢と夢が交錯する創造の場があると言えるだろう。
………………………………………………………………………………………………………………………………………………
市場の波の中に自らを置き 鍛えることと、自身の中から出てくるものを信じ 打ち出していくこと、若しくはそれだけのものを自らの中に養い育てることのバランス。いえ、敢えてバランスと言いたくない。微妙にアンバランスが私は望ましいと思う。
この仕事を始めた時に決めた一つのことは、決して妥協しない。自らを通す、という事だったかも知れない。そのためには自分自身を鍛えないと!
そしてもう一つの文章。
戦時中の日本にもこの様な方々がいらした。
ある意味ごく普通の方からこんな言葉が語られるとは!
芸術家だけの仕事が特別なわけではなく、其々が役割を担って成り立つ世の中だとは思う。が、芸術家の在り方に気付きを与えてくれる言葉。
非常時、何の役にも立ちそうにないかに思える芸術にも大きな役割がある。
"ワガママであることを最も大切にしている仕事"に甘えない様にしよう クスッ
芸術家はある意味物凄くバランスの取れていない生き方に見える。が、そのバランスが取れていない所がバランスの取り処なのである。
原爆の図丸木美術館 展覧会 "光明の光" 展より
横湯久美さんの作品から
横湯さんに、美術家でもなんでもないお祖母さんがが語った言葉。
(お祖母さんはご主人と共に戦前戦中、治安維持法の中、平和を願って戦争に反対し逮捕拷問を受け、旦那さんはそれが原因で弱り亡くなる)
………………………………………………………………………………………………………………………………………………
「あんたの思うように、確かに私には今の美術のことはわからない。でもね、美術をやる人、芸術家の役割は知っているつもりだよ。私にも、芸術家の人たちと似たところが少しはあるからね。
芸術家はワガママであることを最も大切にしている仕事なんだよ。
どんな時でも、自分自身に正直でいないと、呼吸ができなくて死んでしまうくらいの人たちだよ。
誰よりも、自由に敏感なんだ。
だから、国が戦争を始めようとした時、他のどんな人たちよりも先に、この人たちは戦争の気配に気付いて、皆にもわかるように大騒ぎをすることができる。
そのために自分のやり方で生き、見て考えて、声をあげ、表現する練習をし、いつも準備しておくんだ。
現実は厳しく、自分のやり方で生きると、時にとても惨めな目にもあう。
多くの人が別の道に行く中で、己の信じる方向に進むことはそう簡単でない。
まさに命がけだからね。
だから、美術の人たちの仕事はものすごく大変だけれど、ものすごく特別な仕事なんだよ。
それは、大きく激しく大切な務めだよ」
………………………………………………………………………………………………………………………………………………
日本を大きく騒がした戦いが過ぎ(過ぎたのだろうか?)、世界もガタガタと音を立てている今日、私たち一人一人の在り方が問われている。
"芸術なんてやっている場合ではない"のではなく、人が人である証しの一つである芸術はこんな時にも必要です。表現することで訴え、証人となり、感動や明るい気持ちをつくり出すこともある。
私は上記のような真の芸術家なんかではないけれど、空気に敏感で在りたいと思うのです。
えんどう もみ 2016 Summer Collection 詳細はこちら
『ライン――えんどうもみ展』の様子はこちら
松屋銀座2013 Autumn Collectionの様子はこちら
MAD Tea Party ダンス・ダンス・ダンスの様子はこちら
松屋銀座2013 Spring Collectionの様子はこちら
momi2012 in Wa2の様子はこちら
チャリティーサロンTRINITYの様子はこちら
松屋銀座2012 Autumn Collectionの様子はこちら
松屋銀座 2012S/S Collectionの様子はこちら
ギャルリー ワッツ『えんどうもみ展』の様子はこちら
Gallery O2『えんどうもみ新作展』の様子はこちら
松屋銀座 2011 A/W Collectionジュエリーフォーラムの様子はこちら
前回の企画展『盛装ピクニック』の様子はこちら
松屋銀座イベント取材風景はこちら
最近感動した2つの文章
一つは腑のど真ん中に落ちてものすごい納得だった。"そうなのよー!" と。
もう一つは何度読んでも涙が出る。人の命の物語が含まれていると言うこともあるが、何となくもやもやとしていたものにはっきりとした光を当てられた様でした。
いづれも自分自身の在り方を問われる内容で、これが立て続けに私のところにきたのは興味深い。
以下、茂木健一郎さんのフェイスブックより
………………………………………………………………………………………………………………………………………………
"市場に合わせること、市場に逆らうこと"
「市場」というのはとても大切な存在で、自分を磨き、育てようと思ったら、過酷な市場の中に身を置くしかない。その中で切磋琢磨され、批判され、比べられて、それでもがんばることで、何かが育っていく。
もちろん、ニッチ(ひだまりのようなもの)を見つけることも大切だが、そこに隠れて嵐をやり過ごしているだけだと、自分の芯の中の何かが、磨かれずにだんだん曇っていってしまう。だから、市場の嵐に身を晒す覚悟は、いつもなければならない。
しかし、市場は一種類ではないことも事実である。いわゆる「メジャー」なものの背後にある感性が、自分の魂と相容れないこともある。それは、若いときにはしばしば起きる現象だ(いや、人生のベテランになっても同じなのだが、単に感性が摩耗して忘れてしまうだけかもしれない)。
だから、私たちは、二つの種類の勇気を持たなければならない。一つは、市場の嵐に身を晒して、その中で磨かれ、選択される勇気である。もう一つは、その時々の市場の横暴にかかわらず、自分の魂を貫く勇気である。
難しいのは、市場の中で戦う勇気と、自分の魂を貫く勇気が、往々にして両立しないことだ。難しそうで実は容易なのは、市場の圧力に負けて、自分の魂から離れたふるまいをすることである。結果としてその人は成功を得るかもしれないけれども、長い目で見ればその人のためにも、市場のためにもならぬ。
河合隼雄さんとお話したとき、「自分の中心を外さない」ことの大切さを聞いた。市場の厳しさに身を晒すことはどうしても必要だが、その際、「自分の中心を外さない」ことを続けられれば、その人は、自身にとっても、世の中にとっても、一つの福音となる。
別の見方をすれば、適応というものの二面性である。適応はすべきだが、適応し過ぎてもいけない。特に、市場に合わせることを適応と言うならば、みんなが適応することは、単に複写を多数生み出す結果になることも多い。
希望が持てるのは、爆発的にヒットするものは、必ず、鋭利なオリジナリティを秘めているということだ。市場に逆らうことが、結果として市場ではやされ、市場を拡大することにつながることもある。そこにこそ悪夢と夢が交錯する創造の場があると言えるだろう。
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市場の波の中に自らを置き 鍛えることと、自身の中から出てくるものを信じ 打ち出していくこと、若しくはそれだけのものを自らの中に養い育てることのバランス。いえ、敢えてバランスと言いたくない。微妙にアンバランスが私は望ましいと思う。
この仕事を始めた時に決めた一つのことは、決して妥協しない。自らを通す、という事だったかも知れない。そのためには自分自身を鍛えないと!
そしてもう一つの文章。
戦時中の日本にもこの様な方々がいらした。
ある意味ごく普通の方からこんな言葉が語られるとは!
芸術家だけの仕事が特別なわけではなく、其々が役割を担って成り立つ世の中だとは思う。が、芸術家の在り方に気付きを与えてくれる言葉。
非常時、何の役にも立ちそうにないかに思える芸術にも大きな役割がある。
"ワガママであることを最も大切にしている仕事"に甘えない様にしよう クスッ
芸術家はある意味物凄くバランスの取れていない生き方に見える。が、そのバランスが取れていない所がバランスの取り処なのである。
原爆の図丸木美術館 展覧会 "光明の光" 展より
横湯久美さんの作品から
横湯さんに、美術家でもなんでもないお祖母さんがが語った言葉。
(お祖母さんはご主人と共に戦前戦中、治安維持法の中、平和を願って戦争に反対し逮捕拷問を受け、旦那さんはそれが原因で弱り亡くなる)
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「あんたの思うように、確かに私には今の美術のことはわからない。でもね、美術をやる人、芸術家の役割は知っているつもりだよ。私にも、芸術家の人たちと似たところが少しはあるからね。
芸術家はワガママであることを最も大切にしている仕事なんだよ。
どんな時でも、自分自身に正直でいないと、呼吸ができなくて死んでしまうくらいの人たちだよ。
誰よりも、自由に敏感なんだ。
だから、国が戦争を始めようとした時、他のどんな人たちよりも先に、この人たちは戦争の気配に気付いて、皆にもわかるように大騒ぎをすることができる。
そのために自分のやり方で生き、見て考えて、声をあげ、表現する練習をし、いつも準備しておくん
だ。
現実は厳しく、自分のやり方で生きると、時にとても惨めな目にもあう。
多くの人が別の道に行く中で、己の信じる方向に進むことはそう簡単でない。
まさに命がけだからね。
だから、美術の人たちの仕事はものすごく大変だけれど、ものすごく特別な仕事なんだよ。
それは、大きく激しく大切な務めだよ」
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日本を大きく騒がした戦いが過ぎ(過ぎたのだろうか?)、世界もガタガタと音を立てている今日、私たち一人一人の在り方が問われている。
"芸術なんてやっている場合ではない"のではなく、人が人である証しの一つである芸術はこんな時にも必要です。表現することで訴え、証人となり、感動や明るい気持ちをつくり出すこともある。
私は上記のような真の芸術家なんかではないけれど、空気に敏感で在りたいと思うのです。
えんどう もみ 2016 Summer Collection 詳細はこちら
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