『ドリームシーズ』代表、『Kamakaji Lab』主宰の梶原涼晴。
10年間の広告代理店での営業経験を積んだ後、単身渡米。マーロン・ブランド、ロバート・デ・ニーロらを輩出した演技学校の殿堂「ステラアドラースタジオ」にて2年間、演技を学ぶ。ニューヨーク滞在中オフオフブロードウェイでのプロデュース舞台公演等、アーティストとしての活動を経た後に日本に帰国。
日本では個人的な活動母体でしかなかった『Kamakaji Lab』を、2012年には舞台演劇のプロデュース母体として旗揚げした。 2013年5月に上演された『RADIO311』の再演が東日本大震災5周年特別舞台公演として2016年3月3日(木)から東京芸術劇場・シアターイーストで上演される。
その上演前の2月12日(金)に稽古場にて、梶原涼晴に俳優をめざし渡米したことから、今回上演される『RADIO311』について、話を聞いた。
尾崎●単身渡米して、演技学校『ステラアドラースタジオ』に入られたきっかけは?
梶原▲高校の時からモデル活動をしていました。当時、吉田栄作さん、加勢大周さんなど、モデルから俳優にデビューする人たちが多かったので、自分もモデルから俳優になりたいと思っていました。大学時代に芝居を始め、演技の勉強を重ねるうちに本格的に役者になりたいと思うようになりました。大学を卒業する時に芝居一本で役者としてやっていきたいと、家族に話したところ大反対をされ、冷静に考えたらここまで育ててもらって卒業と同時に「私、これから勝手に生きていきます」はないだろうと考え直し就職をしました。それでも役者になる夢が捨てられなかったら、その時はもう一度考えてみようと思いました。
尾崎●それから10年間、広告代理店での仕事をされたと…。
梶原▲代理店での営業の仕事は楽しく気づけば5年経っていました。その間に『アクターズクリニック』主宰の映画監督をされている塩屋俊さんとの出会いがあって、彼に師事して演技の勉強を始めていました。俳優としての仕事もいただいていて、これは務めながら片手間には無理だなと。年齢的にも、このタイミングを逃したらと漠然に思ってもいました。仕事を始めて5年目に退職の話を部長に相談したところ、以外にも喜んでいただいて「最初は売れなくてキャベツに塩をかけて食う毎日でも、いつか本物の役者になれるはずだから、応援しているからがんばれ!」ってお言葉をいただいたんですけど、その矢先に亡くなられてしまって、尊敬していた部長だったこともあり、残された社員たちで穴を埋めようと気づいたらそれから5年、務め始めてから10年経っていました。
時すでに遅しという思いもありましたが、そういう人生もありかなと、一大決心をしてニューヨークへ。
尾崎●なせ、日本ではなく、ニューヨークへ?
梶原▲僕の中にコンプレックスがあって、マッチョマンがラジカセ担いで目の前に来たらやっぱり恐いなってなるんです。それがいやだったんです。『What’s up, man?』って言われたら『What’s up, man?』って返したかったことと、半ば決まりかけていた人生を全部リセットするんだったら、海外だなと思ったんです。今までやれなかったことを一挙にやろうと、それが海外への新しい人生と役者をやるということだった。
尾崎●いきなりニューヨークに行かれて、言葉や文化の違いなどは?
梶原▲英語はあまり喋れなかったんですけど、どうやって英語を学んだかというと酒を飲んで学びました(笑)。最初3ヶ月間はコロンビアの英語学校通い、その後『ステラアドラースタジオ』のオーディションに合格。学校に通い始めたところ、みんなが何を話しているかまったくわからなかったんです。毎晩、アイリッシュバーに飲みにいきました。おごってやるから一緒に行こうっていうとみんなついて来るんです(笑)。バーでは、みんなに囲まれて「サムライ!サムライ!」って言われてましたよ(笑)。飲んでいる時のくだけた英語にだんだんと慣れていきました。
もうひとつは『ステラアドラースタジオ』の演技の勉強の中で、台本に書かれたセリフが僕の中では、日常で使える英会話の言葉になっていったんです。そういった感じで英語を憶えました。
『ステラアドラースタジオ』では必死に2年間学びましたが、僕はニューヨークに演技を学びに来ただけではなく、ここで一旗揚げに来たんだという思いもありました。現在の劇団『Kamakaji Lab』を、この時にニューヨークで旗揚げしました。
オフオフブロードウェイの(※マンハッタンにある約500席未満の比較的小さい劇場で上演される演劇をオフブロードウェイと呼び、さらに小さい劇場で上演されるものをオフオフブロードウェイと呼ぶ)インディペンデントシアターを借りて、初めて作、演出、出演をこなし、現地の仲間9人で公演をしました。それが、今のカンパニーの生い立ちであり、ルーツでもあります。
尾崎●ニューヨークでの役者としての活動を教えてください。
梶原▲『新シリーズ、ピンクパンサー2 (2009年)』のオーディションを受けることになりました。オーディションに合格すれば、そのままこっちで役者としてやっていけるぞって。でも僕はそこで初めてお芝居をしてしまったんです。演技学校では芝居をするなってずっと言われていたんですけど……。役柄は、秋葉オタクの日本人役でした。ハリウッド映画で、日本人のキャスティングということで、メチャ秋葉オタクのふりをして演技をしたら、スティーヴン・タイラー風の女性キャスティングディレクターが僕を睨んで「違うっ!ありのままのあなたがオタクじゃなかったらそれでいいから、あなたを見せて!」って怒られて、もう一度チャンスをいただいたんですが、そこでさらに芝居をしてしまい、衣装も超オタクっぽい格好をしていったところ、ため息をつかれて「OK!SeeYou!」って。結局また怒られて、あの時その役が欲しくてしかたなかったから、芝居をしないっていう大切な何かを守るよりも、自分の情熱やヤル気を見せることを選んでしまったんです。後悔しても取り返しがつかないんですけど……。それから、本当に評価される芝居は何なのかを探求するようになりました。
その後、体を壊したこともあり帰国することになりました。
尾崎●帰国してからは、どのような活動を?
梶原▲病気養生をしている時に、以前お世話になっていた塩屋さんから一緒にやろうとお誘いを受け、映画の仕事をするようになりました。映画出演をしながら、企画、脚本、演出もさせていただいていました。その塩屋さんが3年前に亡くなり、その意思を引き継ぐ形で彼が運営していた『アクターズクリニック』を母体として『ドリームシーズ』を設立し、平行してニューヨークで立ち上げた劇団『Kamakaji Lab』の活動を始め現在に至っています。
尾崎●それでは、3月3日(木)から始まる、東日本大震災5周年特別舞台公演『RADIO311』についてお聞かせください。
梶原▲震災後、この作品の原作を書いていて、1年後の3月11日に古巣である『ステラアドラースタジオ』の『ブラックボックス』という小劇場で上演しようと思っていました。その話を『ステラアドラースタジオ』の代表に電話をして、今回の震災の芝居をやりたいと話したところ、すぐ返事が来て「No problem!」当たり前だろって、出来ることはなんでもやるからと。代表のOKをいただいたので、そのことを塩屋さんに報告すると「お前は被災地を知っているのか?被災地にも行かずに震災の話なんてふざけてんじゃないぞ!」って。塩屋さんは震災から10日もしないうちに缶詰を東京で買い集め、ひとりで現地に行っていました。くやしかったけど、否定できないものがあったので、塩屋さんと相馬市に取材を兼ねて訪れました。
取材先で出会った方々の話や現地のニーズだったり塩屋さんとのオリエンをする間に、もともとのアイデアとは全く違う作品になっていました。
それが、震災から1年後に国連オーディトリアムで上演された『HIKOBAE』です。
今回のそもそも最初に考えていた作品『RADIO311』の初演は、それから2年後の2013年の中目黒での公演になります。
尾崎●『RADIO311』を書こうと思ったきっかけはなんなんですか?
梶原▲冒頭にコンビニのシーンがあるんですけど、実際の震災後に、すぐに近所のスーパーへ行きましたが、すでに何もなくなっていました。あのシーンは実体験に基づいていて、極めて人間らしい部分だと思っています。ですが消防士や自衛隊、一般人でも命をかけて誰かを助けた人も実際に存在しています。確かに誰もがヒーローにはなりたいんだけど、やっぱり自分の身を守りたいということがあります。そういった人間が大半の中で、これからどう生きていけば良いのかということが伝わったらいいなと。
追悼という言葉がよく出てきますが、僕の中ではあまりそういう意味合いをこの作品には込めていません。今、生かされた対岸の火事だった人間たちを見るに、震災があろうがなかろうと、残念ながら今の日本人の距離感とか人間関係はギスギスしていますよね。殺人、DV、いじめ、自殺など「どうした日本!」って、すごく感じています。震災が起きたあの時、近所同士やいろいろなところで人が繋がっている様子が見えました。海外との繋がりもあり、絆という言葉も随分と使われました。あの時の繋がり方というのをもう一度思い出そうという気持ちが、この『RADIO311』には込められています。
尾崎●上演を楽しみにしております。それでは最後にひとことメッセージをお願いします。
梶原▲2回観ていただきたい作品です。客席がコの字になっていますので、角度の違う場所からまた新たな発見があるんじゃないかなと……。
何か胸にある熱いものとか他人と繋がりたいという欲求だったり、それを我慢して二次元に逃げてみたり、真っ直ぐにそういうものを出し切れない、そういった若者たちにこの作品を見ていただきたい。誰かのために生きたいと思っていただけたら、この作品を上演した意味があるんじゃないかなと思っています。
自分のだらしなさを悔い改め、自分の生き方を見つめ直し、繋がり方を見失っている人たちに、もう一度この時に自然に繋がっていた瞬間を見せることによって、劇場を出た後に家族や誰かに電話や会いたいと思うことや、仲の良くなかった友達や道を歩いている人に挨拶してみたりと、そんなふうになってもらえたらいいなと思っています。
誰かのために生きいるということが、とても素晴らしいことなんだということを是非実感してほしい。
『ラジオ311』はそんな作品だと信じています。
★出演者よりひとこと
▲成松修/家族役の吉田美佳子(写真左)西山咲子(写真右)と一緒に
◆成松修
震災当時、仕事をすることに一生懸命でなにもしなかった自分がいました。このお話をいただいた時に、その役者の仕事を通してなにか表現することが出来ないかと。この作品を観ていただいたお客さんが震災について考えるということではなく、なにかを感じていただき両親に連絡をするような、そんな気持ちになっていただけたら嬉しいなと思います。僕も台本を読んでそういう気持ちになりました。
稽古に関してですが、台本が稽古初日にあるって初めてでした(笑)。いつもは稽古中にそのシーンの台本が出来上がってくるんです。そのおかげで効率よく稽古が進んでいます。
梶原さんは、厳しい人ですがアットホームな感じで接していただけるので、演技を探っていく中で一緒に考えたり、作品を作っていく過程でもいろいろと挑戦ができています。
◆北見翔
地方から仕事のため東京に出てきたんですけど、仕事もうまくいかず社会や人に対して心を閉ざしてしまった人間。ニート暮らしをしていて、これから先の人生を全て捨ててしまおうとしている青年を演じます。
震災の犠牲者が僕の部屋に現れ、彼らが誰かのために一生懸命になれたり、素直に愛しているって言えることの素晴らしさを、この作品で伝えていますので、その部分を観ていただきたい。稽古は好調です。全体の動きをつけ終わっていて、これからそれぞれのシーンを繋げて作品に仕上げていきます。先日、相馬市に足を運びました。この作品を演じるにあたり、本当に行って良かったと思っています。責任の重さも感じています。今回も同じ役を演じますが、前回より遥かに良い作品にしたいと思っています。
★東日本大震災5周年特別舞台公演
『RADIO311』
生かされた総ての命へ。
日時:2016年3月3日(木)ー 3月6日(日)
会場:東京芸術劇場 シアターイースト
都内のぼろアパートに住むニート、邦夫。金や権利とは無縁の「負け組」に、2001年3月11日、東日本大震災が襲いかかる。僅かな手持ちでありったけの水、食料を買い貯めてアパートに戻ると、何故かびしょ濡れの7人が部屋にあるラジオを囲んで座っている。邦夫が出て行けと言っても聞かない連中。しかし邦夫は、彼らだけではなく自分自身も部屋に閉じ込められているという現実を目の当たりにすることになる―ドアが開かないのだ。
部屋からどうやって脱出するか皆で思案するが、解決策も見つからず時間が経過していく。食事も水分も摂らずに離れ離れになった妻を案じているタキシード。ひたすら結婚指輪の内側に彫られた誓いのメッセージを繰り返し読みながら妻の無事を願っている。そこへラジオから無情にも妻が遺体で見つかったとの情報。すると次の瞬間、彼のもとへ、ウエディングドレス姿の妻、永遠の再会を実感し、抱きしめ合うふたり。その光景を誰よりも喜ぶ会社員夫妻に、ラジオから聞き慣れた、そして決して忘れることのない声が届く。愛する一人娘、宏美の声だった。娘の無事に歓喜するふたり。そこへラジオから飛び込んでくる福島第一原発爆発の速報。原発から程近い施設に入院しているというOLの父は、娘を失って自分にも生きる理由はないと自衛隊員に訴える。記憶を失ったと言う女性職員は一体誰の安否を頼りにラジオに引き寄せられたのか…「寒い…寒い…寒い…」突然寒さに震える女性職員の耳に、ラジオから大橋の声。皆の無事を確認して心から安堵し、運命を受け入れる女性職員。数日が経過してもなお息子の安否がわからず苛立つ壮年夫婦は、邦夫に息子への伝言を託す。
彼らとの時間を経て、今までふたをしてきた家族への強い愛を再認識した邦夫は、震災から一カ月後に壮年夫婦の息子を訪ね伝言を果たす。その伝言は、できそこないの両親からできそこないの息子への感謝の気持ちだった。長く貴重な心の旅を経て、邦夫はついに、かつて邦夫を捨てた父と偶然再会する。目を伏せ、顔を隠しながらも、最愛の息子との再会に心が揺さぶられる父邦明に、邦夫は震災で体験した不思議な出来事、そこで感じたことを、ぽつ、ぽつと、喋り始める。
いいこととは、どうやったらできるのか、いいこととは、誰のためにやるものなのか、父が、家庭を捨ててまで守りたかったものは何なのか…